前方後円墳の終焉

203 ~ 205

見てきたように長野盆地には、千曲川右岸に九基、左岸に七基の前方後円(方)墳の存在が確認されている。このうちもっとも新しく、確実な築造年代があたえられているのは腰村一号古墳だけで、後円部墳裾から出土した埴輪から六世紀前半期とされる。この古墳は低位段丘上につくられ、横向きに全姿を扇状地方面に向け、また埴輪が立てられたのは平坦(へいたん)面方向のみに限られるなど、古墳への視覚効果が強調されていることに注目する必要がある。こうした意味から同じように全姿を平坦面に向け、低位置に構築された前方後円墳に三才一号古墳・舞鶴山二号古墳があるが、舞鶴山古墳群では一号の大型円墳から、二号の前方後円墳へと二世代にわたる系譜が明らかにされている。三才古墳群においても円墳に前方後円墳がつづく。こうみると、単純に前方後円墳間の系譜が終焉を迎えて他の墳丘形にかわるのではないということがわかる。


写真23 腰村1号古墳 (篠ノ井小松原)

 五世紀の前半には方墳の大星山二号古墳、中ごろから後半には越将軍塚古墳、舞鶴山一号古墳などの円墳が構築されるなど、地域王権系統の土口将軍塚古墳が築造される前後には、独立した中クラスの豪族の台頭をうかがわせる古墳がある。地域王権の衰退にともない、それと同等かまたはそれ以上の支配権をにぎる豪族があらわれて、前方後円墳という独占形態の規制がくずれる。そして新興豪族の次世代目にいたって新たなヤマト政権の支配構造の確立を背景に、一代限りの前方後円墳形態が復活し地域拡散をみたのではないだろうかと考えられる。しかし、六世紀前後を境とし、さらなる階層分化がすすみ、小豪族の台頭という政治的・経済的流れのなかで、前方後円墳は姿を消していく。

 ところで、中郷古墳は沖積面に突出する低位舌状(ぜつじょう)台地上に構築され、前期の山頂上の古墳とおもむきを異にする。通説では、倉科(くらしな)将軍塚古墳(県史跡、更埴市)につぎ地域王権系譜のなかで位置づけられる。しかし、倉科将軍塚古墳と比べて規模的縮小率はいちじるしく、全長では六三パーセントになり、後円部においても六六パーセントにすぎない。また、山頂上の有明山将軍塚古墳に継承するといわれているが、長野盆地の中期古墳の立地をみる限り低地から山頂への編年継続は認められない。むしろ、墳丘流出土がいちじるしいにもかかわらず後円部における内部主体が不明である点もふくめて、細分された塩崎・石川の沖積面支配権を再統合した豪族の奥津城(おくつき)として、腰村一号古墳と同様に終末期の前方後円墳と考えたい。

 馬神一号古墳・地附山古墳・南向塚古墳などは、前方後円墳とみなされているものの、内部主体が不明で、立地も特異なものがあり、古墳であるのかどうかの検討をふくめ、発掘調査をへて結論を出す必要がある。