人びとの生活

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中期古墳に対応する人びとが使用した土器類は、畿内系の布留(ふる)式土器の影響をうすめ、この時期独自の全国的に斉一性をもって広がりをみせる土器型式をもつようになり、関東編年では和泉(いずみ)式期(善光寺平Ⅱ様式)新段階、鬼高式(おにだかしき)(Ⅲ様式)古段階にあたる。須恵器編年(和泉陶邑窯(すえむらよう))では高蔵(たかくら)寺(TK)二〇八号窯期からTK四七号窯期あたりが主体となる。このような土器群をともなう住居跡が存在する遺跡が、古墳築造の背景にあることはいうまでもない。ところが古墳の存在にたいし、浅川扇状地と若穂綿内の沖積面を除き、対応する遺跡が明確になっていないのが現状である。地域王権をささえた石川・屋代沖積面を生産基盤とする千曲川両岸の自然堤防上では皆無に近い。川中島扇状地、裾花川扇状地、三才・長沼沖積面、清野沖積面にも認められない。ただ、松代扇状地では屋地(やち)遺跡(松代町東条)や中条(ちゅうじょう)遺跡(同)、信更山間盆地では宮ノ下遺跡(信更町赤田)において、小規模ながら当期の遺構の存在が明らかになってきたが、総体としての遺跡群はさだかでない。


写真24 本村東沖遺跡の30号住居跡
上方にカマドがある (上松) 長野市埋蔵文化財センター提供

 若穂綿内の榎田(えのきだ)遺跡は、上信越自動車道建設に先だって発掘調査がおこなわれ、総数九〇〇軒に近い古墳時代の住居跡が確認されているが、そのほとんどが後期に比定されるようである。中期の住居跡にはカマドが構築され、須恵器の導入が認められ、鉄製の鍬(くわ)・鋤先(すきさき)や木製鋤などの農耕具、勾玉(まがたま)・管(くだ)玉・臼(うす)玉・小玉それに子持(こもち)勾玉が出土している。

 浅川扇状地遺跡群では、本村東沖(ほんむらひがしおき)遺跡(上松)・三輪(みわ)遺跡(三輪本郷)・下宇木(しもうき)遺跡(三輪下宇木)・牟礼(むれ)バイパスB地点遺跡(若槻東条)・二ツ宮(ふたつみや)遺跡(若槻稲田・徳間)がある。

 このうち上池ノ平古墳群(上松)に対応する本村東沖遺跡では、古墳時代中期の住居跡が五六軒確認されており、長野盆地において内容のわかる唯一の遺跡である。土器の形態、器種の組成や住居跡の重複関係から四段階の時間差がある。第一段階は有段口縁(ゆうだんこうえん)の壺(つぼ)や球形胴の甕(かめ)に代表され、多様の椀(わん)・坏(つき)・高坏の出現を特色とする。この段階まで小型丸底土器や器台などの前代の祭祀(さいし)・供献(きょうけん)用土器も若干ながら伴出する。第二段階では壺が減少し、煮沸(しゃふつ)用具は甕に統一され、カマドの採用により球形胴から長胴へ変化しはじめる。食膳形態の定型化により個人用の椀や坏類が多用されるようになり、黒色土器が出現するのもこのころからである。また須恵器が住居跡からも出土し、模倣(もほう)土器もつくられるようになる。第三段階は甕の長胴化がすすむいっぽう大小の甑(こしき)が出現する。坏には須恵器模倣品が増加し、黒色土器も定着する。第四段階は甕における球形胴的なものは激減する。高坏にも変化が認められ和泉式形態のものは姿を消し、須恵器に系譜が求められる高坏群が登場する。坏類は地域色が出てき、後期的要素の強い段階である。


図18「豪族の館」の想定図 (松代町西条長礼山2号古墳出土埴輪より作成)

 それぞれの年代は第一段階は五世紀前半、第二段階は五世紀後半、第三段階は五世紀末、第四段階は六世紀前半に比定される。住居跡は竪穴式のもので、平面形は方形や隅丸(すみまる)長方形態を基本としている。一・二段階は密集形態で住居跡が展開するのにたいし、第三・四段階ではより広く拡散傾向になる。第一段階では五棟確認され、一辺一〇メートル台の大型住居跡が二棟、八メートル台が二棟の存在が注目される。この段階ではカマドの構築はなく地床炉(じしょうろ)である。第二段階は一辺五~八メートル範囲にまとまりをみせる。第三・四段階は規模に二極化がみられ、第三段階では九メートル台と五メートル台に、第四段階ではさらに規模を縮小し八メートル台と五、六メートル台に大別される。第四段階の新しい時期に比定される三輪(小学校)遺跡の例では、一号住居跡が五メートル台にあるのにたいし、二号住居跡は一〇メートル台と大きな違いをみせる。第三・四段階の二極化は後期の小豪族の台頭を暗示する。しかし、出土遺物からは住居跡間の階層差・貧富差は認められない。

 豪族の家を推定させる資料に、家形埴輪がある。近隣では長礼山二号古墳(松代町東条)と天神一号古墳(須坂市)から出土している。ともに高床式構造の建物で、棟木(むなぎ)には鰹木(かつおぎ)をのせている。前者は寄棟造(よせむねづくり)で、ワラ葺屋根を連想させる。後者は破風板(はふいた)でかざる切妻造(きりづまづくり)である。遺跡からも掘立柱(ほったてばしら)建物跡と想定される柱穴列(ちゅうけつれつ)が認められるが、居住施設か倉庫跡か遺構からは判断しにくい。

 カマドの構築は、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされた新しい厨房(ちゅうぼう)施設である。本村東沖遺跡では、第二段階で確実に採用され定着化している。構築位置は入り口と反対側の壁の中央につくられるのがふつうである。両袖(りょうそで)形で、先端には石組みされたものと粘土袖のままのものがある。カマドの採用は地床炉にくらべ、住居内の空間利用を広げ、住居規模の縮小をうながし、ひいては間仕切(まじきり)による目的別の使用空間を生みだした。また煙道(えんどう)の併設により、より熱効率が高くなり調理方法の多様性を促進した。それは煮沸具の甕における長胴化をもたらし、これに大型の甑がセットとして使用され、銘銘皿(めいめいざら)的な多様な食器類が増加する。