生産地と農具

210 ~ 210

集落および古墳を築造した人びとをささえた生産地の問題がある。山の幸・川の幸なども積極的に採集していたであろうが、農耕は畑作と水稲栽培が普遍的かつ基本的な生産手段である。そして後者の優位性は弥生時代以来ゆるぎないものである。粟(あわ)・稗(ひえ)・麦・豆などの雑穀類が栽培されていたであろう畑作遺構は、今のところ長野盆地では確認されていない。水田遺構は、石川条里遺跡や川田条里遺跡の発掘調査により明らかになりつつあるが、古墳時代中期にあたる水田面はいまひとつ明確になっていない。榎田(えのきだ)遺跡(若穂綿内)からは鉄製の鍬・鋤先が出土しており、三号河川跡第六層からこの時期の木製品が多量に出土している。各種鍬類・鋤・木槌(きづち)などの農具類、紡織具、建築材、鞍(くら)、鞘(さや)、容器、腰掛(こしかけ)などである。とくに農具類が多量に出土することは水田可耕地や畑作地の広がりへの対応を意味しており、耕地の開墾や開拓がこの時期に盛行をみたのではないかと推測される。