当時の農耕は、後世にまして自然条件しだいで大きく収穫量が左右されたから、生産にかかわる農耕祭祀(さいし)は、ムラ(村)や人びとにとって重要な精神的支柱であった。まして、自然科学の研究によって、五世紀代は冷涼な気候であったと推定されている。開墾や開拓・灌漑(かんがい)などの土木工事により水田可耕地がひろがるにつれ、その豊穣(ほうじょう)を願う気持ちはいっそう増したであろう。
村落共同体でとりおこなった祭祀と考えられるものとして、水霊(すいれい)信仰にもとづく遺跡が確認されている。駒沢新町(こまざわあらまち)遺跡(市史跡名は駒沢祭祀遺跡、古里上駒沢)は浅川扇状地末端部の湧水(ゆうすい)地帯に位置し、九ヵ所の祭祀遺構を残す。このうち六ヵ所が古墳時代前期末から後期のものである。五世紀中ごろにつくられたと考えられる一号跡は、長方形の掘りこみに、小型丸底土器・𤭯(はそう)・高坏・器台・手捏(てづくね)土器など供献・祭祀用土器を主体に、壺・甕・坏など総数五〇〇個をこす土器類、数個の勾玉や剣・鏡(有孔円板(ゆうこうえんばん))などの滑石(かっせき)製模造品、九〇〇個以上の臼玉(うすだま)、ガラス小玉、若干の鉄製品などが納められていた。新井大(あらいだい)ロフ遺跡(中野市)はややあとのものであるが、内容的に同じような祭りがおこなわれている。屋地遺跡(松代町東条)でも、土器埋納遺構が二ヵ所確認されており、集落の祭祀跡であろう。中村(なかむら)遺跡(松代町西条)では浅い掘りこみで、火をともなう祭りをおこない、終了後祭りに用いた二十数個の土器類、滑石製品、鉄製品などを投棄した行為をうかがわせる。駒沢新町遺跡と内容や立地を異にしているが、神田川がすぐ横を流下しているので、水霊信仰のひとつの形態と考えられる。
松代町清野の四ツ屋(よつや)遺跡では、一部に円筒埴輪を立てた、直径二〇メートルほどの円形周溝(しゅうこう)遺構が確認されている。自然堤防上の北端に位置し、遺物の偏在的な出土状況から古墳とは考えられないところから、四ツ屋祭祀遺構とよばれている。埴輪列のなかから土師器高坏・𤭯、須恵器把手(とって)付坏など供献・祭祀土器の出土は、墓前祭祀的である。しかし旧千曲川に面したところの遺構であることから、水害などの河川氾濫を鎮める水神祭祀跡ともうけとられる。
一般に、子持勾玉、滑石製模造品および手捏土器は、五世紀代の祭祀遺物を代表する。本村東沖遺跡では五世紀後半の第二段階の遺構に集中して認められ、三六号住居跡からは一二五点にのぼる滑石製模造品の未製品が出土しており、製作工房跡とみられている。榎田遺跡・牟礼バイパスB地点遺跡においても、同様な祭祀遺物が確認されている。祭祀形態や内容はわからないが、おそらく農耕祭祀の家もしくは司祭者の家と考えられる。子持勾玉は母体の勾玉に、小型の勾玉や小玉を添付した大きめの勾玉である。呪力(じゅりょく)をもつ勾玉にさらに呪力を加えることによって増殖の機能をもたせ、農作物の豊穣(ほうじょう)を祈る農耕祭祀に深くかかわりのある玉と考えられている。前記した遺跡のほかに、篠ノ井横田の観音寺(かんのんじ)遺跡から三個(市指定)採集され、松代町東条の玉依比賣命(たまよりひめのみこと)神社児玉石(こだまいし)(県宝)のなかに一二個、更級横多(さらしなよこた)神社(篠ノ井横田)に一個所伝されている。近隣の遺跡からの出土品であろう。