長野市域の古墳文化を特徴づけるものに積石塚(つみいしづか)古墳がある。古墳の墳丘はふつうは土を盛りあげて築くのであるが、石を積みあげた古墳を積石塚古墳とよび、積石塚と略称して用いている。しかし、古く明治時代のころから、積石塚とは別に石塚という名称も用いられており、両例は混用されて現在におよんでいる。一般的に日本の学界では、中国吉林(きつりん)省集安にある高句麗(こうくり)の将軍塚古墳のように、長方形に整形した大型塊石(かいせき)を幾段にも階段状に積みあげた方形墳などを石塚といい、香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)の猫塚・石船塚などの人の頭ほどの大きさの塊石で築いた前方後円墳などを積石塚と称する傾向があり、集安の将軍塚古墳と同類の例がないところから、近年では積石塚古墳という名称が定着したと思われる。
積石塚(以下古墳は略す)の分布は九州地方から関東・東北地方にまで認められるが、全国的な正確な分布はよくわかっていない。しかし積石塚といえば長野県、とくに長野市域の善光寺平南東部、千曲川沿いの山丘(さんきゅう)傾斜地や山麓(さんろく)扇状地に分布する松代町大室(おおむろ)古墳群が著名である。総数約五〇〇基の大室古墳群のなかで、積石塚は約八〇パーセントの四〇〇基前後にたっしている。
この大室古墳群は日本の代表的な積石塚群集墳として、平成九年(一九九七)七月二十八日に国史跡に指定された。松代町大室は旧埴科郡寺尾村に属し、奇妙山(きみょうざん)と尼巌山(あまかざりやま)から突出する支脈が金井山(かないやま)・霞城(かすみじろ)と北山へとつづき、これらの丘陵尾根上とそれらのあいだに発達した二つの谷間に、合計五つの古墳群として分布している。それらは南西部から北東部へ向かい、金井山(丘陵尾根上)・北谷(谷間と扇状地)・霞城(丘陵尾根上)・大室谷(おおむろだに)(谷間と扇状地)・北山(丘陵尾根上)古墳群として分類されている。約五〇〇基に達する古墳は、これらの五つの古墳群にわかれて分布しており、北山古墳は二二基、大室谷古墳群二四一基、霞城古墳群一六基、北谷古墳群二〇八基、金井山古墳群一八基で合計五〇五基を数える。
大室古墳群へは明治十年代(一八八〇年代)に、大阪造幣局技師として来日中のウイリアム・ガウランドが数度にわたって現地調査に入っているから、識者のあいだでは積石塚として著名な存在であったと思われる。五〇〇基をこえるこの古墳群の全容が判明したのは、旧寺尾村の中学校教諭であった栗林紀道の分布調査の結果による。昭和二十年(一九四五)ころから数年間を費やしておこなった徹底した現地調査にもとづく正確な分布図の作成は、長野県考古学研究の記念すべき業績とされるであろう。大室古墳群の分布は、丘陵尾根上と標高約三五〇メートル付近から七〇〇メートル付近にいたる谷筋と扇状地にみとめられ、各古墳群は地形ごとに十数基から三十数基におよぶ大小の単位支群に細分される。昭和四十四年に、長野市教育委員会はこの大室古墳群の詳細な分布調査を計画し、駒沢大学考古学研究室が担当調査したが、基本となったのは栗林の分布図であった。