大室古墳群の発掘調査

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明治時代から著名な古墳群ではあったが、組織的な発掘調査はほとんどおこなわれなかった。その理由のひとつには、明治・大正・昭和にいたる継続的な、しかも徹底的な盗掘がおこなわれていたことがあげられるであろう。積石塚なるがゆえに発掘は容易であったから、すべての古墳は既掘墳であった。昭和二十六年の明治大学後藤守一による約二週間近い調査は、組織的なものとしては大室古墳群で最初のものであった。北谷古墳群での三五七・三五八号古墳の発掘、大室谷古墳群一〇七号古墳の発掘のほかは、二四四号古墳(将軍塚古墳)をはじめとする既掘墳の清掃と実測作業が中心であった。当時、大室古墳群でもっとも特異な墓制とされていた合掌形石室は二〇基前後といわれていたが、とくにとりあげることはなかった。その後、昭和四十四年北谷において長野県農業大学校の建設などがあり、小規模な調査は実施されたが、古墳群の構造をとらえるような視点の調査ではなかった。


写真26 大室古墳群の発掘調査(松代町大室)
明治大学考古学博物館提供

 昭和五十九年から開始した大室谷古墳群の調査は、はじめは明治大学により、のちには長野市との共同で十数年つづけられた。平成九年の国指定後は、遺跡整備のための調査に切りかえられて現在も継続している。大室古墳群がこれまで考古学的に評価される場合は、すでに指摘してきたように積石塚が集中的に分布していることであり、特異な内部構造とされる合掌形石室が存在することであった。


写真27 大室244号古墳の全景(松代町大室)
明治大学考古学博物館提供