大室古墳群の積石塚は五世紀でも中ごろには出現していたと思われ、それと同時期に合掌形石室も採用されたのであろう。しかし、須坂市八丁鎧塚(はっちょうよろいづか)一号古墳の積石塚では、箱形石棺と想定されている内部主体から鏡をはじめ水字貝製貝釧(くしろ)や石釧・大刀(たち)・鉾(ほこ)などが出土しているから、新しく考えても五世紀初頭には善光寺平の一部地域に積石塚が登場していたことになる。その積石塚のすべてについて渡来人および渡来系の人びとの墓制と断定することができるのか否か、なお検討する問題がありそうである。
現在までのところ、大室古墳群で合掌形石室を有する五世紀後半の積石塚は、百済からの渡来人を埋葬した可能性が高い。最近における日本各地、とくに東国における積石塚の調査例の増加とともに、この可能性はますます濃厚になってきている。
平成九年(一九九七)以来、静岡県浜北市の二本ヶ谷積石塚古墳群の調査がすすめられている。谷間の窪地(くぼち)に立地する低墳丘の積石塚群はすべてが方形墳であり、内部には矩形化した浅い竪穴式石室がみとめられ、五世紀後半に位置づけられる須恵器をはじめ鉄製品などが出土している。二本ヶ谷積石塚群を取りかこむような周辺台地上に出現する古墳は、いずれも盛土による封土墳であって積石塚群の立地とは対照的であり、封土墳と積石塚とを残した集団の性格の差が墓制にあらわれているように思われる。
同様の事例は、群馬県高崎市の剣崎長瀞西(ながとろにし)古墳群でも最近明らかにされている。長瀞西古墳群の立地も、段丘地形上の窪地となった地点に積石塚がまとまって分布し、周囲の高位地には封土墳が見られ、浜北市二本ヶ谷遺跡例と共通した特色をしめしている。長瀞西古墳群は調査の結果、方形プランの積石塚であり、内部主体は矩形化した底面の浅い竪穴式石室である。積石塚の立地のみでなく、内部主体の構造までが二本ヶ谷例と共通していたのである。この高崎市長瀞西古墳の積石塚とその周辺からは、金製垂飾耳飾りや韓式系土器が出土し、また一土坑(どこう)からは馬歯とともに輸入された鏡板付轡(くつわ)が発見された。朝鮮半島の南部地域の伽耶(かや)か百済からもたらされたこの轡の型式は古く、五世紀代でも前半期の年代があたえられる。
長瀞西古墳群の積石塚と同様の特徴を示す積石塚は、群馬県下の渋川市や利根郡昭和村でも発見されており、また高崎市をはじめ群馬郡群馬町・同箕郷(みさと)町・渋川市などの各遺跡から、韓式系土器が出土しており、渡来系の人びとと積石塚との歴史的な関係も否定できない状況にある。浜北市でも高崎市においても最近、あいついで調査された積石塚が五世紀代に位置づけられ、ことに高崎市長瀞西古墳群では馬埋葬と百済・伽耶を想定させる耳飾りや韓式系土器が出土しているのを見ると、これら積石塚の系統は朝鮮半島に求められるのではないかと考えるのである。
大室古墳群においては五世紀に合掌形石室が出現し、その被葬者が百済出身者であったのではないか、少なくともその可能性があることを示唆した。合掌形石室を残した集団が馬の飼育に関係した人びとであったことは、大室一六八号古墳の土馬の出土だけではなく、一八六号古墳の横穴式石室前庭部での馬頭供犠祭祀など、『延喜式』の大室牧記載以前、五世紀からの馬関係の考古学資料の増加で明白となってきた。
大室谷古墳群のムジナゴーロ単位支群の調査において、矩形化したプランをもつ竪穴式石室が平成三年以降に明らかになった。大室一九五号古墳はムジナゴーロ支群のなかでも多くの積石塚が集中している地点で、一基ずつの墳丘裾部(すそぶ)の確認は容易ではない。一九五号古墳はいちおう直径一二メートル前後と考えているが、その中央部に約三メートルの間隔をおいて、平行する二基の竪穴式石室が発見されている。北寄りの石室は長さ三・四メートル、幅一・二メートル、東寄りの石室はやや小型で長さ一・九四メートル、幅〇・九メートルで、狭長な前期形式の石室から見れば矩形化あるいは長方形化していて、竪穴式石室としては新しい時代の特色を示している。側壁は一段か二段積みで床面が浅い特色がある。蓋(ふた)石などは見当たらず塊石を積み上げたものではなかろうか。床面には薄い板石を敷いている。この一九五号古墳の二例の竪穴式石室からは、鉄刀・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)のほか蓮弁文(れんべんもん)付雲珠(うず)・鈴などが出土し、また墳丘から土師器と須恵器片が発見されている。
大室古墳群においては従来、箱形石棺・合掌形石室と横穴式石室のみが内部主体として知られていたが、一九五号古墳のような底面の浅い矩形化した竪穴式石室も存在することが確実となった。積石塚における竪穴式石室については、すでに指摘したように静岡県浜北市の二本ヶ谷、群馬県高崎市の長瀞西古墳群のほかに、渋川市の行幸田(みゆきだ)・空沢古墳群などに、方形積石塚群の内部主体として存在している。大室一九五号古墳の竪穴式石室は、これらの東国各地の諸例と時代的には関係があるのではないかと思われる。
松本市里山辺の積石塚群中の針塚(はりづか)古墳は円墳であるが、墳頂部には矩形の竪穴式石室があり、中国製の内行花文(ないこうかもん)鏡をはじめ鉄剣などが副葬されており、墳丘をめぐる周溝内から五世紀代の祭祀用の土師器と須恵器がまとまって発見された。積石塚で発見されつつある矩形化した底面の浅い竪穴式石室は、いずれも五世紀後半を中心に登場した墓制のように思われるが、大室一九五号古墳の大型石室には蓮弁文様のある雲珠が副葬されており、六世紀前半にまで下る可能性もある。
大室古墳群において竪穴式石室につづいて出現するのは横穴式石室である。五〇〇基に近い積石塚の八〇パーセントは、横穴式石室をもつ後期古墳である。胴張りの玄室をもつ石室、奥壁・側壁の構造にあらわれた多様な変化によって、六世紀から八世紀初頭ころまで、各単位支群ごとに大小の積石塚が築かれていったことがわかる。このため、五世紀に大室の谷に積石塚と合掌形石室を残した人びとは、おそらく渡来人であったと思われるが、かれらの後裔(こうえい)たちはしだいに在地化して、六世紀段階には後期古墳の指標でもある横穴式石室の墓制を採用し、墓域には依然として積石塚を築きつづけたのだと理解してきた。ところが平成三年にムジナゴーロ単位支群中の一八七号古墳と一九〇号古墳の調査で、従来、大室古墳群では知られていなかった側壁の積みかたをした横穴式石室が発見された。
大室一八七号古墳は、直径一二・四メートル、高さ一・五メートルの円形積石塚である。南東方向に開口する横穴式石室は、全長五・〇四メートル、奥壁幅〇・九八メートル、羨道(せんどう)幅〇・六メートルの無袖(むそで)型の形式である。この石室の特徴は玄室部分の側壁の積みかたにあらわれている。左右おのおの六枚の大型平石を立て、その上に小型の平石を横積みにするという構築法をとっている。大室一九〇号古墳のほうは墳丘が多少損なわれているが、全長四・六メートルの両袖型の横穴式石室は、一八七号古墳と同様に側壁下段に大型の平石を縦位置に立て、その上に小型の平石を横積みにする手法を用いている。一九〇号古墳は墳丘から土師器の高坏(たかつき)と須恵器甕(かめ)の破片が出土しているが、一八七号古墳の玄室内からは盗掘をまぬがれた鉄刀五口と素環鏡板付轡(くつわ)・刀子・銀環と鉄鏃などが発見され、六世紀後半以降という年代があたえられている。
この平石縦積みと上方に横積みを用いた側壁をもつ横穴式石室は、大室古墳群でははじめて調査されたものである。この特異な横穴式石室は、白石太一郎が伊那谷の初期横穴式石室受容の様相を論じ、四類型中の一類型d類として摘出した石室と同型式のものである。白石はこの論考において飯田市座光寺の畦地(あぜち)一号古墳と高岡(たかおか)一号古墳をとりあげ、両例を「高岡一号タイプとも称すべきもの」として、側壁の「下段に平石を立て、上段には扁平(へんぺい)な石材を一段だけ平戸積み」した特徴を指摘している。平成十年にいたって白石太一郎は、これらd類とされた飯田市座光寺の高岡一号古墳や畦地一号古墳の横穴式石室について日本列島の他の地域には見られないことと、韓国の崔完奎(チェワンギュ)が全羅北道(ぜんらほくどう)錦江河口で調査した百済石室墳の横穴式石室の特徴と共通していることに注目している。白石は沃溝将相里軍屯一号古墳の石室に畦地一号古墳の石室と共通する特色を認め、韓国全羅北道の錦江河口地域の石室と伊那谷の横穴式石室とのあいだの系譜関係を検討する必要性を述べている。
この高岡一号古墳タイプの石室は、大室一八七号と一九〇号古墳の横穴式石室の調査のさいにはじめて遭遇した石室の形式であり、きわめて異質的な存在であることに気づいた。五〇〇基をこす大室古墳群の八〇パーセントが横穴式石室であるが、かつて大室では見たことのない型式である。ただし、今後、大室古墳群の各単位支群別の確認調査が進行すれば、類例の増加は期待されるであろう。伊那谷の飯田市と長野市大室だけに確認された百済と同一型式の横穴式石室の存在は、被葬者の出自にかかわることなのか課題は多い。とくに伊那谷の高岡一号古墳や畦地一号古墳は六世紀前半代に築造された東日本の初期横穴式石室墳である点が注目されている。これらの石室墳が百済系譜の墓制であり、被葬者をも錦江河口地域に関係のある集団の出身者として認めることが可能であるならば、大室一八七号・一九〇号両古墳の被葬者たちも、百済から渡来した人びとであったと推測できないことはない。松本市里山辺の針塚古墳群の丸山古墳も同類例と思われ、積石塚である点からも注目される。
伊那谷においても五世紀代からの馬の埋葬が顕著であり、平成十一年現在で三〇例近い調査例がある。長野市域の善光寺平でも。いまや五世紀後半段階には、大室牧・高井牧と後代に名が残るような、馬の飼育が活発化していたことをしめす考古学的な状況証拠が積みあげられつつある。大室一八七号古墳は盗掘をうけ天井石のすべてが除去されていたが、清掃調査によって玄室奥壁付近から鉄刀五口が出土した。轡の発見もあるので、埋葬直後の副葬品は質量とも豊富であったことが推測できる。この一八七号古墳や一九〇号古墳の主人公とその一族が、もし錦江河口地域出身の百済系の渡来人であったとするならば、かなり優位な立場にあった人物と考えることができる。残っていた一部の副葬品から判定すれば、六世紀代における馬匹(ばひつ)生産集団の統治者的な地位にいた人物であり、管理者として馬の飼育技術集団の統轄者であった可能性もあるのではなかろうか。
伊那谷の高岡一号古墳・畦地一号古墳などは、出土品などからも六世紀前半という年代があたえられている。いっぽう、大室一八七号古墳・一九〇号古墳については、一八七号古墳の素環鏡板付轡や長頸(ちょうけい)式鉄鏃の型式から六世紀中ごろから後半という年代が考えられている。大室古墳群におけるこの特異な構造の横穴式石室の築造年代については、なお若干の検討の余地はあるとはいうものの、六世紀中ごろ前後という時期を考えて大きな誤差はないものと思われる。