約五〇〇基近い大室古墳群の積石塚の出現は、五世紀の中ごろか、あるいは前半期にまでさかのぼる可能性もあるが、その内部構造は現在までに判明している事実では合掌形石室であった。なお多少の考慮の余地を残すとすれば、箱形石棺も採用されている可能性があろう。また、一八七号古墳の北西部にある一九五号古墳では大小二個の竪穴式石室が存在し、いずれも矩形化した底部の浅い遺構であって、横穴式石室が登場する前段階に採用された形式だったのであろう。すでに指摘したように松本市里山辺の針塚古墳や静岡県浜北市の二本ヶ谷古墳群、あるいは群馬県高崎市の長瀞西古墳群などで明らかにされている竪穴式石室をもつ積石塚は、いずれも五世紀代後半に属する点を考えると、大室一九五号古墳の竪穴式石室の年代もこれらの諸例と大差はないのであろう。
これらの石室平面プランが矩形化の傾向をしめし、石室内部が浅く、しかも積石塚墳頂部のかなり浅いレベルに位置する竪穴式石室は、日本の前期古墳の特色でもある狭長な竪穴式石室の系列とは、直接的に連係してはいないように思われる。五世紀代におけるこれまで知られている古墳の内部構造としては、類例の少ない異質的なグループにまとまる特色を有しているようである。群馬県渋川市の東町古墳や坂下町古墳群、あるいは利根郡昭和村の川額軍原(かわはけいくさはら)古墳群の方形積石塚のなかには、同じ類型の竪穴式石室が存在しており、東国の積石塚のなかでも五世紀を中心とした特色ある内部構造として、把握しておく必要があるように思われる。
大室一九五号古墳の二例の竪穴式石室と同型式の例は、将来この大室古墳群でかならず発見されるものと思われる。朝鮮半島においても現在、積石塚の埋葬主体として、より明確化しつつある状況である。
すでに指摘したように、韓国の百済(くだら)墓制のなかでも錦江河口の沃溝郡将相里軍屯一号古墳や西池古墳のほかに、崔完奎が紹介している益山郡源水里古墳・城南里一号・一三号古墳などは、大室一八七・一九〇号と同じ手法による横穴式石室構造であって、日本国内における特例ともいえる側壁石材の平石竪積みと上積みした平石横積み手法は、錦江河口地域の横穴式石室墳との関係を推測させるものがある。同一型式の墓制を共有しているという点で、両地域の歴史的な関係が浮かびあがってくるのであるが、日本国内においても天竜川流域の長野県飯田市と千曲川流域の大室古墳群にのみ存在している点も、また注意すべき事項だと考えられる。崔完奎は軍屯一号古墳・西池古墳の横穴式石室の築造年代を六世紀中ごろと推定しているが、いずれも盗掘をうけており正確な年代は期しがたいという。しかし百済古墳の石室墳の従来の編年論によれば、これらの年代はほぼ妥当なものと考えられる。もしこれまでの考察に誤りがないとすれば、飯田市高岡一号古墳・畦地一号古墳をはじめ、長野市大室古墳群一八七・一九〇号古墳も、六世紀中ごろ前後の年代をあたえてよいのではなかろうか。
大室古墳群の積石塚群を残した初期の人びとのなかに、朝鮮半島南部の地域からの渡来人がいたことは事実であろう。合掌形石室の出現は、百済墓制のなかにある持ち送り形式を示す穹窿(きゅうりゅう)状天井石室墳などからの系譜が考えられるのであろう。高句麗(こうくり)系統の特色をもつ百済古墳の流れを示す古墳が千曲川流域や天竜川流域に存在する事実は、五世紀段階から六、七世紀をつうじて継続的に渡来人たちの移住があったことの考古学的証明ではないかと思われる。
大室古墳群の形成にかかわった集団は、後代の『延喜式』に見える大室牧の初期段階に馬の飼育にあたって活躍した技術者たちであったと思われる。五世紀中ごろの一六八号古墳には土馬が献供されていたし、五世紀後半の一九六号古墳の合掌形石室内からは珠文鏡とともに短甲片と轡(くつわ)片が出土していて、馬との関係が大室の積石塚形成当初から濃いように思われる。飯田市の物見塚・荼柄山古墳群や新井原古墳群などでは、五世紀後半の複数の馬埋葬例が発掘され、すでに三〇頭に近い数となっている。
馬の飼育をおこなう牧場の経営には、飼料の生産・供給をはじめ、その管理体制を維持する専門的な技術者が多く必要であったろう。奈良時代、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(七五七)に施行された養老律令(ようろうりつりょう)の廐(くもく)牧令(きゅうぼく)によれば、牧ごとに責任者である牧長をはじめ牧帳・牧子をおくほか、馬医や足工などの技術者、書生(しょしょう)・農民などがいたことがわかる。
五世紀代になってから東国の各地で馬の飼育が積極的におこなわれたらしい考古学上の実証が増加しつつある。東国における馬匹生産が各地で同時多発的に開始されたものだとすると、その背景と契機は中央の大和王権の主導によったと考えることが可能であろう。おそらく王権の政治的支配を強力にすすめるうえで、迅速な情報の伝達や状況の収集・把握に馬はきわめて有用な動物であったと思われる。人や物の早い移動が政治や経済上の効果を高めたことはいうまでもなく、馬の飼育の重要性は王権にとって大きな関心事であったと思われる。朝鮮半島の百済や新羅(しらぎ)・伽耶(かや)などからの倭国(わこく)への渡来集団のなかに、馬匹生産にたずさわる人びとがふくまれており、大室古墳群ではとくに百済との関係をしめす考古学的な状況が濃厚であると考えている。約五〇〇基の大室古墳群のなかで、とくに四〇〇基以上という集中的な分布をしめす積石塚は、半島からの渡来人およびその系譜をうけつぐ渡来系の人びとの墳墓である可能性が高い。しかし、大室牧の運営にかかわった集団のなかには、在地の農民層をはじめ各種の手工業生産に関係した人びともまたふくまれていたと考えられるから、古墳群の積石塚のなかにも多様な性格の例が存在するに違いないと思われる。
これらの大室古墳群と古墳群を残した当時のムラムラとの関係や、馬の飼育集団の内部的構成などは、大室古墳群の各古墳の特徴を詳細に把握したうえで比較検討しなければならないと思われる。
国史跡に指定された大室古墳群は、東アジアにおける古代朝鮮半島と倭との歴史的な国際関係の証(あかし)を積石塚のなかにいま漂(ただよ)わせている。千曲川のほとりの大室の扇状地で牧草を食(は)む馬の姿をしのぶことができるのは、大室古墳群あってのことなのである。