散在する小さなムラ

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長野市内の発掘調査において、古墳時代集落の検出例は、弥生時代や平安時代にくらべると非常に少ない。竪穴住居跡の検出例が少ないことに加え、平地住居跡や居館跡と考えられる遺構も発見されておらず、いまだ当時のムラの姿を解明するにはいたっていない。とくに古墳時代前~中期、五世紀前半までの集落は、自然堤防の縁辺部など地形的に不安定な場所に堅穴住居跡が散在するのみである。

 古墳時代後期の五世紀後半から六世紀代になると、浅川や松代の扇状地上や千曲川の自然堤防上に、竪穴住居二〇軒以上の比較的規模の大きい拠点的な集落が出現しはじめる。そして、その拠点的集落の周辺には、住居軒数数軒程度の小規模な集落が衛星のように散在する傾向を読みとることができる。拠点的な集落には数棟の掘立柱建物が建てられているが、衛星的な集落には竪穴住居のみである。しかし、七世紀末から八世紀初頭になると、塩崎小学校あたりを中心とした塩崎遺跡群を除いて、拠点的な大規模集落はその規模を縮小していくようである。

 篠ノ井では、塩崎遺跡群の松節(まつぶせ)遺跡から竪穴住居跡三五軒が検出されている。篠ノ井遺跡群からも二八軒の竪穴住居跡と七棟の掘立柱建物跡が検出されており、中心的な集落であったと考えることができる。周辺には塩崎遺跡群や富士宮遺跡があり、信更(しんこう)町や七二会(なにあい)の山間部にも、小規模な集落が形成されている。川中島扇状地上にも、四九軒の竪穴住居跡が確認された田中沖遺跡(小島田町)が中心的集落として展開しており、千曲川をはさんでしまうものの、対岸の大室古墳群との関連が想定されている。


写真43 御所遺跡の古墳時代後期集落 (中御所)
長野市埋蔵文化財センター提供

 裾花川扇状地にも、竪穴住居跡六〇軒が確認された御所遺跡(中御所)が発見されている。周辺には東番場(ひがしばんば)遺跡(栗田)や八幡田沖(はちまんでんおき)遺跡(稲葉)が衛星的に展開しており、安茂里の後期古墳群との関連を考えることができよう。浅川扇状地上の遺跡からは、普遍的に数軒ずつの竪穴住居跡が見いだされているが、拠点的な集落は不明である。広大な扇状地を望む地附山、三登山山麓の後期古墳群をつくった人びとの集落と考えることができる。松代の皆神山周辺は後期古墳が数多く分布しているが、集落遺跡は屋地遺跡や中条遺跡など皆神山の北西麓にかぎられ、墓域と生活域が明確に区分されている。

 若穂綿内の榎田(えのきだ)遺跡は、上信越自動車道建設工事に先だって発掘調査された沖積地上の遺跡である。古墳時代後期の竪穴住居跡はおよそ五〇〇軒、掘立柱建物跡は約四〇棟が検出され、古墳時代後期の集落としては長野盆地初の巨大集落の発見であった。弥生時代の集落とは連続せず、五世紀前半に新たに集落が形成されている。五世紀後半には爆発的に住居軒数がふえ、その約九〇パーセントにカマドがつくられるようになる。また一辺およそ七~八メートルの大型住居も分散した状況で確認されており、いくつかのグループ単位を読みとることができる。六世紀代をつうじて大規模な集落が営まれ、七世紀代ではもっとも住居軒数が増加する。しかし八世紀の直前には突然に集落がとだえ、九世紀後半の平安時代にふたたび集落が登場するまで、人びとが生活した痕跡は確認することができない。


写真44 榎田遺跡の古墳時代後期集落 (若穂綿内)
長野県埋蔵文化財センター提供

 榎田遺跡はまた、沼地状の遺構から五世紀を中心とした多量の土器や木製品が出土したことで有名である。木製品では鉄製の刃を装着した鍬(くわ)や鋤(すき)など耕作用の農具が多量に出土したほか、弓や鞘(さや)などの武具、黒漆が塗られていた壺鐙(つぼあぶみ)や鞍(くら)などの馬具、黒漆塗りの紡錘車(ぼうすいしゃ)などの紡織具、腰掛けなどの雑具や、下駄・木履(ぼくり)といった服飾具などがある。さらに建築部材やこれらの未製品、木屑(きくず)なども出土していることから、木製品の製作工人集団が生活していた可能性も考えられている。


図27 5~7世紀代のおもな土器 (山田美弥子画)

 各遺跡で発見される竪穴住居跡は、古墳時代中期にくらべると若干小さくなっており、正方形プランで四本柱が基準となるなど、ある程度規格化が進行していたようである。また、五世紀の中ごろから登場したつくりつけのカマドは、六世紀以降にはかならずといってよいほどに設けられるようになる。千曲川自然堤防上の遺跡から、円筒形土製品(えんとうがたどせいひん)がカマド付近で出土することがある。この遺物は山梨県や栃木県、遠くは青森県にまで分布している。埴科郡坂城町の宮上遺跡では、カマド本体の芯(しん)材として利用されており、カマドをつくるときの部材である可能性が高い。ムラに住む人びとが使用した土器についても、カマドが普及したことなどにより変化している。土師器の甕は、カマドの形にあわせた烏帽子形(えぼしがた)のような胴の長いものが多くなり、土器の表面をととのえる作業は、板状の工具でなでるようなハケ調整から、削りとるようなケズリ調整へしだいに移りかわっていく。坏(つき)や椀にはいろいろなタイプが登場するかわりに、高坏(たかつき)は減少するようである。水分の浸透を防ぐために、坏や椀の内面に煤(すす)を吸着させた黒色処理技術も一般化する。また、数個の須恵器が出土する住居跡が多くなるが、須恵器生産遺跡は六世紀初頭の松ノ山窯跡(ようせき)以降、七世紀中ごろの中野市茶臼峰(ちゃうすみね)九号窯跡までのあいだは、現在のところ見つかっていない。