古墳が消えるとき

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六世紀末ごろに、日本最初の仏教寺院である飛鳥寺(あすかでら)が奈良県飛鳥の地に建設された。これは時代を象徴する記念碑的な建造物が、前方後円墳から寺院へと変化したことを示している。近畿地方ではこれ以降、大きな前方後円墳はつくられなくなり、関東でも七世紀初頭には姿を消してしまう。前方後円墳が築造されなくなってからの古墳を終末期(しゅうまつき)古墳とよんでいる。また、この七世紀を飛鳥時代とよぶ研究者もいる。

 このころには円墳や方墳、上円下方墳(じょうえんかほうふん)などさまざまな形の古墳が築造されるようになるとともに、その規模は縮小化していく。大化二年(六四六)の薄葬令(はくそうれい)は、墳丘や石室の規模、古墳造営にかかわる労働力である役夫(えきふ)の数などを、埋葬される人の身分によって規制したものであり、従来の古墳にくらべるといちじるしく縮小化、簡素化した内容となっている。しかしじっさいには、奈良県高市郡明日香(あすか)村の岩屋山(いわややま)古墳など、切石づくりの大型横穴式石室が構築されていることから、薄葬令という規制が確実に実行されたとは考古学的には考えにくい。むしろこうした規制を出さざるをえなかった状況が、当時の社会情勢のなかにあったと考えたほうがよい。

 ヤマト政権の中心地である近畿地方では、七世紀中ごろから八角形墳が登場する。奈良県にある八角形墳は、即位した天皇にかぎって築造される古墳の形と考えられている。七世紀後半には切石づくりの大型横穴式石室をもつ円墳や方墳が築造され、七世紀末ごろには高松塚古墳など、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を埋葬主体とする古墳が登場する。いずれも古墳の規模は小さくなってきており、近畿地方以外の地域でも七世紀後半には小型化する。副葬品についても、金銅の装飾をほどこした大刀(たち)や馬具のほか、銅製の水瓶(すいびょう)や銅椀など、仏教文化との関連が考えられる品々が副葬されるようになる。須恵器を石室内に副葬することもなくなり、全体的には少量化、簡素化の傾向を強めるようになる。これまで、有力豪族やその同族配下の地方豪族たちは、古墳の大きさや貴重品の副葬などによって身分や権力を見せつけていたが、いまや新来の仏教文化にもとづく寺院建立へとその対象を変化させたものと考えられている。


写真45 桑根井鎧塚1号古墳 (松代町豊栄)
長野市埋蔵文化財センター提供

 長野盆地では、六世紀前半と考えられている腰村一号古墳を最後に前方後円墳は築造されなくなってしまい、後期古墳と終末期古墳は厳密には区別できていないのが現状である。とりあえず六世紀から七世紀前半に築造されたものを後期古墳、七世紀後半以降に築造されたものを終末期古墳としている。しかしじっさいには、長期間の追葬や奈良・平安時代になっての再利用、また後世の改変や盗掘などにより、古墳の築造時期を推定することがむずかしい。積石塚状の墳丘をもつ古墳が群集している、松代豊栄の桑根井鎧塚(くわねいよろいづか)古墳群や若穂保科の長原古墳群、更埴市の大穴(おおあな)古墳群などの例から、七世紀末から八世紀前半までは古墳が築造されていたと推定できる。

 この時期の古墳の特徴は、石室内よりも入り口である前庭部や、その周辺から須恵器が出土する例が多いことである。追葬時の石室内からのかきだしも考えなければならないが、墓前祭祀的な行為もおこなわれていたのであろう。また、石室内から金銅製の耳環(じかん)の出土数が多いことも特徴のひとつである。追葬時のかたづけ行為や盗掘などにより埋葬時の実数は不明であるが、長原一三号古墳からは一五個、若槻の吉古墳群七五号古墳では一〇個が出土している。長原一二号古墳から出土した四個のなかに、麻紐(あさひも)が巻きついて残存している例があり、耳環の使用方法を考えるうえで貴重な資料となっている。

 若槻吉の吉三号古墳は、直径一〇メートルの盛土円墳で、埋葬主体部である横穴式石室の奥壁には仏像らしい線刻(せんこく)が描かれている。この線刻画が古墳築造当時のものとすれば、新来の仏教文化受容の一例となるが、後世に描かれた可能性もあり、線刻画の性格上確認することはむずかしい。

 このように長野盆地において古墳の造営がいちおう終息するのは、ヤマト政権の中心地である奈良県などより遅れ、八世紀初頭から前半と考えられる。そして奈良時代になると、火葬墓や小型の石室墓が普及するようになる。長野盆地では奈良時代火葬墓の検出例はないが、松代町大室の村東山手遺跡からは、横穴式石室を再利用した奈良時代の墳墓がみつかっている。追葬ではないものの、大室谷一帯は墓域としての認識が依然つづいていたのであろう。同じように松本市の安塚・秋葉原古墳群でも、終末期古墳から奈良時代の墳墓への移りかわりが発掘調査によってあきらかにされている。