地域呼称「シナノ」の由来と用字

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この節では主に文字で書き記された史料(文献史料)をもとに、二世紀後半から三世紀前半の耶馬台国(やまたいこく)(やまと)の時代(弥生時代後期)、三世紀後半から七世紀前半のヤマト(大和・倭)王権の時代(古墳時代)、さらに七世紀中葉から後半にかけての律令(りつりょう)国家の成立期までの、善光寺平(長野盆地)を中心とした「シナノ(科野・信濃)」の歴史を述べる。具体的な話に入る前に、古代における「シナノ」という地域呼称の由来と用字(とくに漢字表記)について確認しておく。

 「シナノ」という語は意味的に「シナ」と「ノ」の二つの単語に分けられる。このうち「ノ」は、古代においては、現在一般に用いられるように広々とした野原ではなく、山すそのゆるやかな傾斜地をいうことが多いという。「シナノ(科野・信濃)」は、西に今の岐阜県の「ミノ(三野・御野・美濃)」、東に今の群馬県・栃木県の「ケノ(毛野)」という二つの「ノ(野)のクニ」にはさまれており、それらを貫く「ヤマのミチ(東山道)」によって三つの「ノ(野)のクニ」が結ばれていたことは「シナノ」の「ノ」の語義を象徴的にいいあらわしている。

 いっぽう、「シナ」の語源については古くから議論がある。これまで、①級坂(しなさか)・階坂(しなさか)(段丘状の地形)説、②科(しな)の木(シナノキ科の落葉喬木(きょうぼく))説、③科戸(しなと)(風神の「級長戸辺命(しなとべのみこと)」)説、④篠(しの)(細く群生する竹)説があった。このうち、近年では①級坂説が有力とされ、とくに「シナ」の付く地名が埴科(はにしな)・更級(さらしな)地方に多いことから、この地域が「シナ」地名の発祥地であるという説も唱えられている。そして、近年発見された更埴市の屋代遺跡群出土木簡(もっかん)や奈良県奈良市の平城京長屋王(ながやおう)家出土木簡の分析などを加えることによって、地域呼称「シナノ」の由来については、つぎのように考えられるようになった。

 甲斐(かい)・武蔵・信濃の国境(くにざかい)の山岳地帯、甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)の北側に源を発し上流では急流だった千曲川は、中流域で流れがゆるやかになるにつれて氾濫(はんらん)を繰りかえし川幅も広くなりゆっくりと流れ、その名のとおり何度も蛇行するようになる。「シナノ」は、こうした千曲川中流域に形成された山すそから川の両岸まで広がるなだらかな傾斜地形の呼称に由来し、しだいにのちの「ハニシナ」(「埴科」)・「サラシナ」(「更級」)両郡を総称する地域的呼称になった。

 「信濃奈流知具麻能河泊能(しなのなるちぐまのかはの)」(信濃なる千曲の河の)と『万葉集』巻一四の東歌(あずまうた)に詠まれていることに象徴的にあらわされているように、「シナノ」と千曲川とは密接にかかわっていた。そして、この地域には、四世紀前半ごろにつくられたとされる古墳時代前期の前方後円墳に代表されるように、早くから有力な政治的勢力(「ク二」)が存在したため、まず五世紀ごろ、ヤマト王権によってこの「クニ」の首長(「クニヌシ」)が国造(くにのみやつこ)に任命されたさいに、「シナノのクニのミヤツコ」とよばれるようになり、さらに七世紀後半、律令(りつりょう)国家が地方の行政単位である国(「令制国」)を制定したさいにも、国名に「シナノ」が採用されるにいたったと考えられている。


写真46 長野駅前のシナノキ

 なお、関連して述べておくと、埴科・更級の両郡に隣接する小県(ちいさがた)・水内(みのち)・高井各郡の名称の由来も千曲川の流れにかかわっている。小県は、従来、ヤマト王権の地方組織である「県(あがた)」に由来するといわれているが、東国に「県」がおかれた例は少ないうえに、『和名抄(わみょうしょう)』では「小県」を「ちひさかた」と読んでおり、近年説かれているように「小さな潟(かた)」、すなわち千曲川が蛇行して形成した中州や氾濫原の湿地帯(三日月湖・小さな潟)に由来すると考えたほうがよいと思われる。また水内は「みずのうち」、すなわち千曲川やしばしば流路を変えながら千曲川に流れこむ犀(さい)川・裾花(すそばな)川・浅川などに囲まれたまさに「水の中にある」土地、に由来するものと思われる。さらに高井は、千曲川がつくりだす低湿地にたいして山がちでやや高い地形に由来することから付けられた地域呼称であろう。このように、善光寺平の地域呼称は千曲川がつくりだした地形によるところが大きい。

 また、地名の「シナノ」にあてられた漢字表記(用字)の相違について調べると、『古事記』(和銅五年・七一二成立)では「科野」が、『日本書紀』(養老四年・七二〇成立)では一例(斉明(さいめい)天皇六年是歳(このとし)条の「科野」)を除き「信濃」が、それぞれ統一的に用いられている。また、大宝(たいほう)元年(七〇一)から同三年の間の成立という「民部省式(みんぶしょうしき)」(『令集解(りょうしゅうげ)』賦役令(ぶやくりょう)調庸物条「古記」所引)には「信野(しなの)」とあるが、正倉院宝物中の白布に捺された国印や正倉院文書中の国名表記は「信濃」である。国名「シナノ」に関する現在確認できる最古の表記は、奈良県の藤原宮出土の七世紀末と思われる「科野国伊奈(いな)評鹿□大贄(おおにえ)」という木簡である。詳細はこの章の第二節で述べたが、国名としての「シナノ」の漢字表記は、七世紀後半以前の段階では、「科野」が用いられていたものの、大宝令制定(大宝元年)をへて、慶雲(けいうん)元年(七〇四)に諸国の国印が鋳造されたさいに、国名表記も確定し、「シナノ」に関しては「科野」(または「信野」)から「信濃」へと表記が変更されたと理解されている。なお、『古事記』の表記に関していえば、もととなった史料が天武天皇の命により稗田阿礼(ひえだのあれ)が「誦習(ようしゅう)」した(誦(よ)み習った)ものであったことから、大宝令以前の表記方法である「科野」によったものと思われる。

 このようなことから、本節では、史料から直接引用する場合を除いて、原則として大宝令制定より前の「シナノ」の漢字による地域呼称を「科野」、それ以降を「信濃」で表記する。また、弥生時代の地域的な政治的なまとまり(集団)、および古墳時代にヤマト王権が任命した「国造」など在地の有力首長の勢力範囲を「クニ」と表記し、律令国家により七世紀後半に制定された地方行政単位(組織)としての「国」(令制国)と区別する。