中国の正史などに日本列島のことが見えるのは、『前漢書(ぜんかんじょ)』地理志に「楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり。分かれて百余国をなす。歳時を以って来たりて献見す」と見えるのが初見であるが、具体的な年次がわかるのは紀元前一世紀ころからである。『後漢書』東夷伝(とういでん)によれば、建武中元二年(五七)、倭の奴国(なこく)が朝貢し、光武帝(こうぶてい)より「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印を授与されたり、永初元年(一〇七)、倭国王帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)(奴隷)一六〇人を安帝に献上したことなどが見えるので、紀元一世紀中ごろから二世紀初頭には、北九州の政治集団(「クニ」)の首長が中国王朝と交流していることがわかる。
ところで、日本列島において国家がいつどのようにして成立したかについては、「国家」の定義によって議論のあるところだが、もっとも早く考える説にしたがえば、三世紀前半、未熟ながらも官人(官僚)組織・軍隊・租税制度などをもち、一定の支配領域を占め、「卑弥呼(ひみこ)」とよばれる女王を王に戴(いただ)き、中国王朝にたいして朝貢による外交交渉をおこなった耶馬台(やまたい)(やまと)国の段階であるという。『三国志』の「魏書(ぎしょ)」のうち「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」(以下、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とする)によれば、耶馬台国は伊都(いと)国・奴国など三十余国をしたがえた連合国で、もとは男王を王に戴いていたが争いが起こり、後漢の桓帝(かんてい)(在位一四六~一六七)と霊帝(在位一六八~一八八)のあいだ(『後漢書』東夷伝による)、倭国内が大いに乱れて、あい戦ったが(「倭国大乱」)、その後、卑弥呼を立てて女王としたところ争いもおさまったという。卑弥呼は、景初(けいしょ)二年(二三八)から正始(せいし)八年(二四七)にかけて、六回ほど魏に使者を派遣したのにたいして、魏からは「親魏倭王(しんぎわおう)」の印綬(いんじゅ)を授けられ、銅鏡一〇〇枚などを贈られているが、この銅鏡が前期古墳を中心に出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)であるとする説もある。
耶馬台国の所在地については、大和説と北九州説とが対立しているが、平成九年(一九九七)から翌年にかけて発掘された奈良県天理市柳本の黒塚(くろづか)古墳から大量の三角縁神獣鏡が発見され、旧来からの大和説の根拠を無理なく説明できるようになったことにより、大和説、とくに三輪山山麓(さんろく)の纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を中心とする地域に比定する説が有力になった。そして、耶馬台国が大和にあったとすると、耶馬台国は三世紀末には存在したとされるヤマト王権に直接つながる王権であると理解できる。
また、耶馬台国大和説をとった場合、善光寺平の政治勢力(シナノのクニ)との関係で注目されるのは、『魏志倭人伝』によれば、その「南」(東ヵ)にあって耶馬台国に属さず、男子を王に戴き耶馬台国とは対立関係にあったと伝えられる狗奴(くな)国の存在である。狗奴国を濃尾平野から東海地方に勢力をおよぼした政治勢力であると理解する説があるが、もしそうだとすると、善光寺平の政治勢力(シナノのクニ)が狗奴国と連合していたのか、服属していたのか、あるいは大和の耶馬台国とはどのような関係を有していたのか興味深いところである。しかし、これについて文献史料はまったく語らないので、今後の考古学の成果に期待するほかないが、とくに、狗奴国の墓制との説もある前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)の研究がまたれるところである。