ヤマト王権の成立と「シナノのクニ」

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三世紀後半から七世紀前半までのあいた、大和を中心としたのちの近畿地方に存在した政治権力・初期の国家体制をヤマト(大和)王権とよんでいる。その成立に関しては、初期の王を『古事記』『日本書紀』(あわせて「記紀」と略す)の天皇系譜に見える「崇神(すじん)天皇」(ハツクニシラススメラミコト)に想定する見解が多いが、最終的には八世紀前半に律令国家の支配者層である貴族によってまとめられた「記紀」には、作為や文飾によって史実を書いていない部分や不確かなところ、不合理なところも多い。このため、ヤマト王権の成立過程については、「記紀」の記述を参考にしつつも、中国の正史、高句麗(こうくり)の好太王(こうたいおう)(広開土王(こうかいどおう))碑文など外国の史料や、熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳出土大刀銘(たちめい)(銀錯銘(ぎんさくめい)大刀)や埼玉県の埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳出土鉄剣銘(てっけんめい)(金錯銘(きんさくめい)鉄剣)など国内の金石文(きんせきぶん)・出土史料によって説明されることが多い。

 五世紀の倭国の様相を伝える『宋書(そうじょ)』「夷蛮(いばん)」の「倭国」(以下、「宋書倭国伝」)によれば、永初二年(四二一)には倭国王の讃(さん)が、元嘉(げんか)二年(四二五)には珍(ちん)が、元嘉二十年には済(せい)が、元嘉二十八年には興(こう)が、大明六年(四六二)には武(ぶ)が、それぞれ中国の南朝政権である宋に使者を派遣し「安東将軍・倭国王」などの称号をうけ、中国を中心とした冊封(さくほう)体制(中国の皇帝が周辺諸国の王や民族の首長に爵位または称号などを授け、王や首長は臣下の礼を取ることにより皇帝から統治者として承認される体制)に加わったことが知られる。この五人の倭国王(倭の五王)は、それぞれ「記紀」にいうつぎの「天皇」に比定されている。つまり讃は履中(りちゅう)または仁徳(にんとく)、珍は反正(はんぜい)、済は允恭(いんぎょう)、興は安康(あんこう)、武は雄略(ゆうりゃく)、の各天皇に比定する説が有力である。ところで、五世紀前半から後半にかけてヤマト王権は朝鮮半島への進出をめぐり、積極的な外交を中国の南朝政権に展開していたが、倭の五王の最後、武が宋の順帝の昇明二年(四七八)に使いを派遣し送った上表文(じょうひょうぶん)には、ヤマト王権の成立にかかわるつぎのような内容が記されている(意訳、原漢文)。

我が国は遠く辺地にあり、中国の藩屏(はんぺい)(外垣)となっています。昔からわが祖先はみずからよろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川を渡って歩きまわり、落ち着く暇(いとま)もございませんでした。東方では毛人(もうじん)の五五ヵ国を征服し、西方では衆夷(しゅうい)の六六ヵ国を服属させ、海を渡っては海の北にある九五ヵ国を平定しました。

 この記事に見える征服したり服属させたりした「国」は、地域の政治勢力(「クニ」)を示すが、これらの記事にはヤマト王権の東方・西方・海外への進出に関する記述が見え、他の史料によってその記述が裏づけられるものがある。


写真48 埼玉稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣
埼玉県立さきたま資料館提供

 まず海外への進出については、「好太王碑文」により、四世紀末から五世紀初頭における朝鮮半島へのヤマト王権の軍事的進出が確認される。西方に関しては熊本県の江田船山古墳出土大刀銘により、東方に関しては埼玉県の埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘により、ヤマト王権の勢力浸透が裏づけられている。とくに「辛亥(かのとい)(しんがい)年」の銘を有する稲荷山鉄剣銘によれば、古墳に埋葬されたと思われる「乎獲居臣(をわけのおみ)」より八代さかのぼる「意富比垝(おおひこ)」までが、代々「杖刀人(じょうとうじん)」の長(親衛隊長ヵ)としてヤマト王権に奉仕してきたこと、「乎獲居臣」は「獲加多支鹵(わかたける)大王」(大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇)の王宮が「斯鬼宮(しきのみや)」(磯城宮)にあったとき、大王の政務を助け、「辛亥年七月」にこの鉄刀を作製させたこと、が記されている。「辛亥年」が四七一年に比定されることから、この銘文に記された内容は、武の上表文に見える「東方の毛人の五五ヵ国」にかかわる記述であると推定されている。さらに、「乎獲居臣」が武蔵の国造家一族出身であるとする説にしたがえば、銘文の系譜から「乎獲居臣」より七代前に一族がヤマト王権に服属したことになり、一世代を二〇年くらいとすれば、その服属時期は四世紀前半ということになる。

 以上のように外国の史料や国内出土の鉄剣銘などの総合的な分析によって、東国は四世紀前半にヤマト王権に服属したと理解されているので、善光寺平を中心とした「シナノのクニ」の勢力(政治集団)も同じころにはヤマト王権に服属したと考える説が有力であり、これは前節で示されたような考古資料の分析による見解とも一致する。