記紀伝承に見えるヤマト王権の東方進出と「シナノ」

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「記紀」に見えるヤマト王権の東方(東国)への進出に関連しては、崇神天皇が派遣した「四道将軍(しどうしょうぐん)」のうち、大彦命(おおひこのみこと)が北陸(高志路(こしじ))に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東海(東方十二道)に派遣されたとの伝承がある。また、崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国を治めたという話、豊城入彦命の孫彦狭嶋王(ひこさしまおう)が「東山道十五国の都督」となった話、などの伝承も古いものであるが、これらの伝承の背景やもとになった史実の有無などヤマト王権の東方進出に関する伝承の理解については議論のあるところである。また、これらの伝承は「科野」とは直接表記されず、「東方」など間接的な表記による伝承である。いっぽう、直接「シナノ」に関する伝承としてはつぎのような「ヤマトタケル」の東征伝承が知られている。

 「記紀」の景行天皇の条によれば、「ヤマトタケル」(『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と表記)が東方の十二道に「荒ぶる神」や「まつろわぬ」(服従しない)人びとを「事向(ことむ)け」する(服従させる)ため派遣され、大和を出発し伊勢(三重県)から尾張(愛知県)そして駿河(するが)(静岡県)・相模(さがみ)(神奈川県)、さらに東にすすみ蝦夷(えみし)を平定した帰りに、『古事記』では甲斐(かい)(山梨県)より科野に入り、「科野の坂神(さかのかみ)」(神坂(みさか)峠の神)を服従させ尾張に帰還したという伝承が記されている。また、『日本書紀』によれば、「日本武尊」は『古事記』とほぼ同様な経路をたどり蝦夷を平らげたのち、日高見(ひたかみ)国から常陸(ひたち)(茨城県)をへて甲斐国に入り、酒折宮(さかおりのみや)で「ただ信濃国・越国(こしのくに)のみ従っていない」といって北上し、武蔵(東京都・埼玉県)・上野(こうずけ)(群馬県)をへて「碓日坂(うすいざか)」(碓氷峠)にいたり、「碓日嶺(みね)」に登り、そこで道を分け、吉備武彦(きびのたけひこ)は越国に派遣され、日本武尊は山高く谷深い山道を分け入り、この国の山の神の化身である白鹿を打ち殺したため道に迷うが、白狗(はくく)(いぬ)の助けによりようやく「信濃坂」(神坂峠)を越えて三野に抜け、そこでふたたび吉備武彦と合流するという伝承である。


図28「記紀」に見えるヤマトタケルの東征ルート(『関ヶ原町史』通史編上巻より)

 これらの伝承がどのように形成され史実をどの程度反映しているのかについては、これまた議論のあるところで、すべてが史実であるとはとうてい考えられない。しかし、これらの伝承には、「ヤマトタケル」という一人の活躍に収斂(しゅうれん)されてはいるが、ヤマト王権の東方進出がなんらかの形で反映されていると考えるべきであり、文献史料が乏しい科野の古代史を考えるうえでは、このような伝承から少しでも史実を読みとっていかなければならない。そのさい、古代における科野の交通路の展開という視点に注目すべきであり、とくに、七世紀後半には完成していたと思われる東山道(とうさんどう)(令制東山道)より前に存在したとされる「古東山道」(ヤマのミチ)や、「越国」への千曲川沿いのルートを、碓氷峠を起点にしながら理解する必要がある。