ヤマトタケル伝承と「古東山道」・「越への河の道」

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律令制下の官道である東山道以前に、いわゆる「古東山道」と仮称される古道が科野国内を通過していたことが早くから提唱されている。それは『万葉集』巻二〇に、防人(さきもり)として北九州に向かう信濃国埴科郡の神人部子忍男(かんひとべのこおしお)が「ちはやふる 神の御坂(みさか)に 幣奉(ぬさまつ)り 斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため」と詠んだように、古代においては峠で祭祀(さいし)がおこなわれていたが、長野県内の峠のなかには、古墳時代を中心とした古代の幣と思われる滑石製・石製の模造品が発見されており、それら峠の祭祀遺跡をたどることによって、神坂(みさか)峠(下伊那郡阿智村)-雨境(あまざかい)峠(北佐久郡立科町)-瓜生(うりう)峠(同郡望月町)-入山(いりやま)峠(同郡軽井沢町)というルートが「古東山道」として想定されている。このルートは三野(みの)国より、のちの伊那郡・諏訪郡・佐久郡をへて毛野(けの)国以東の地域にいたる、科野国を最短コースで横切るルートであり、峠祭祀遺跡の遺物から五世紀前半にはこの古道が始まっていたという説が唱えられている。

 こうした考古学の見解を踏まえ、ヤマト王権の東方進出が語られる「記紀」の伝承、とくに『日本書紀』の記述に注目してみると、まず、ヤマト王権は、のちの東海道を海路を利用しながら太平洋沿岸地域を飛びとびに進出し、いったん、東北地方南部(福島県いわき市周辺ヵ)まで進出するが、服属しない中央高地など内陸部や日本海側へは、やや遅れて武蔵や毛野(けの)から進出しようとしたらしい。とくに『日本書紀』によれば、さきに述べたように甲斐から武蔵・上毛野をへて碓氷峠にいたっている。これは、諏訪地域の勢力の存在(抵抗)とも関係があるのかもしれないが、その当否はともかく、『日本書紀』の記事からは、ヤマトタケルの進出ルートは碓氷峠を越えたあたりで分かれ、①越(こし)(越後)に向かうルートと、②科野国内を通り三野または尾張に向かう山道の、二つのルートが存在したことが想定される。このうち、②の山道が「古東山道」と推定されるルートに対応する可能性がある。その場合、「古東山道」に相当するルートの当時における利用方法は、三野から科野そして毛野へというよりは、毛野から科野そして三野へという方向であったという点も注意すべきである。

 いっぽう、吉備武彦がすすんだ①越へのルートは、すでに一行が碓氷峠まで来ているとすれば、毛野国(けのくに)(上毛野(かみつけの))から三国山脈を越えて直接「越」(越後)に抜けるのは大変なため、佐久・小県・科野(埴科・更級)・水内・高井の地域を千曲川に沿いながら、途中からは水運も利用して越(越後)に入ったと考えるのが合理的であろう。これに関連して思い起こされるのは、『万葉集』に見える「しなの」の枕詞(まくらことば)「みこもかる」と「こし」の枕詞「しなざかる」とである。

 まず、「みこもかる(水薦刈る)」について述べると、『万葉集』巻二に久米禅師(くめのぜんじ)が石川郎女(いしかわのいらつめ)に求愛したときの歌に「水薦刈る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも」とあるが、一般には「みこもかる(水薦刈る)」が「しなの」の枕詞であるという理由を、信濃国の埴科郡に生えている「みこも(水中に生えるまこも)」を土地の人びとが刈りとるようすが、都の人には珍しく思われたところからとするのが通説である。これは、小県地域と埴科・更級両地域の境あたりからゆるやかに流れる千曲川中流域が、越後との国境までは「みこも」が生えるようなゆっくりとした流れの状態にあり、古代における河川交通の容易さをうかがわせる。

 ついで「しなざかる」は、たとえば『万葉集』巻一九に大伴家持(おおとものやかもち)が「あしひきの 山坂越えて 行き変はる 年の緒(お)長く 科坂在(しなさかる) 越(こし)にし住めば」と詠んでいる。この「しなさかる」は国名の「越」にかかる枕詞で、「しな」は階や級、品の意味であり、「さかる」は離れるの意味で、幾山坂を越えて遠く離れた意味とする説があるものの、従来、語義やかかりかたは不明であるという。しかし、「シナノ」(科野)から「コシ」(のちの越後)に出るルートが、越前の敦賀(つるが)から越国(こしのくに)に入るルートより印象深くヤマト王権の時代の人びとに意識され、その後伝承されていたとすれば、「しなさかるこし」は、「シナ」すなわち「科野」より遠ざかって「越」にいたったという意味にまず解釈され、さらに「越国」に入る場合は、途中で万葉仮名の用字のとおり「科坂在る」ルートを「越えた」ことからこのような掛詞(かけことば)の要素も含む枕詞が生まれたと理解できるかもしれない。もしそのような「越」と「科野」および「科坂」との関係が人びとの記憶に強く残っていたとすれば、七世紀後半に北陸道が整備され畿内(きない)から科野を通過せずに越国(のちの越後)に入れるようになっても、この表現が用いられつづけたとも考えられよう。『長野県史』によれば、信濃と越後を結ぶ古道には国境に三ヵ所の「み坂」なる地名があることが指摘されている。このうち下水内郡栄村大字豊栄にある「深坂(みさか)峠」か、上水内郡牟礼村大字小玉にある「見坂(みさか)平」のいずれかの「み坂」が「科坂」(科野の坂)であるとも理解でき、峠を越せば「越」国につながっていたのである。

 このように『万葉集』に見える「シナノ」や「コシ」にかかわる枕詞から知られる科野と越との関係を参考にしながら、ふたたびヤマトタケルの東征伝承を読むと、四世紀前半ごろにヤマト王権の勢力が東国に進出したさいには、科野には、毛野国から三野までの「山の道」(「古東山道」)と毛野国から碓氷峠を越え千曲川および千曲川に沿って越国にいたる「河の道」(「越への河の道」)とが存在して、利用されたと推定できよう。