従来、「科野国造」の氏名(うじな)に関しては、『古事記』、『先代旧事本紀』の「国造本紀」、阿蘇(あそ)神社の神官の系譜を記した「阿蘇氏系図」、さらに『万葉集』巻二〇の防人(さきもり)歌などから、他田舎人(おさだのとねり)氏・金刺舎人(かなさしのとねり)氏や阿蘇氏と同じく神武天皇の第二皇子神八井耳命(かみやいみみのみこと)を祖とする大和の多(おお)(意富(おお))氏の同族であり、その根拠地はのちの小県郡であるとされてきた。しかし、「科野国造」氏を説明するさいにもっともよく用いられてきた「阿蘇氏系図」については、近年、その信憑性(しんぴょうせい)について疑問視する見解が多く、『長野県史』以来、その利用にあたっては慎重であるべきだとの考えが強まっているので、本節でも古代史の史料としては検討の対象外とする。
さらに『長野県史』の編さんを契機になされた研究により、『日本書紀』の継体紀(けいたいき)や欽明紀(きんめいき)に百済(くだら)で活躍した「斯那奴」何某(なにがし)と見える人物の「斯那奴」を「シナノ」と読み、これは「科野」に同じで、かれらは国造軍の一員として、はるばる科野から朝鮮半島に遣わされた科野国造氏の一族や子孫であり、したがって科野国造の氏の称は「科野氏」、姓(かばね)は「直(あたい)」である、という有力な説が提唱された。そして当初の根拠地については「シナノ」の国名の由来となったのちの更級・埴科両郡一帯であり、六世紀からは「科野国造」は科野直氏から分家した一族である金刺舎人氏や他田舎人氏に交替し、のちの伊那郡を根拠地とするようになったとの説も提出されている。したがって、つぎに、科野国造に就任したとされる金刺舎人氏・他田舎人氏や科野の国造領域に設定された部民との関係について述べる。
金刺(金刺舎人・金刺部)氏は、八世紀以降の史料によれば、信濃国ではのちの伊那・諏方(すわ)・埴科・水内の各郡司クラスの人物にみられ、駿河(するが)国にも多く分布する氏である。そのウジ名は、六世紀にヤマト王権の大王であった欽明(『日本書紀』によれば在位五三九~五七一)の王宮である磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の名に由来し、ヤマト王権から王宮での雑役や警護をするために出仕することを求められた科野国造氏は、その子弟を「トモ」(舎人)として朝廷に送った。「舎人」として朝廷に仕え奉る子弟らは、伴造(とものみやつこ)氏である「舎人造(とねりのみやつこ)氏」の指揮下に入り、「金刺舎人氏」と名乗った。いっぽう、子弟を送りだした科野国造氏は、金刺宮にいる子弟(「金刺舎人」)の生活費用をまかなうため、国造領域内の一定地域の農民集団を「金刺(舎人)部」として設定し、国造一族の特定の家がその現地管理者(下級伴造)に任命され、農民集団(「金刺(舎人)部」)の支配にあたった。このため、かれらは「金刺部直氏(かなさしべのあたい)」とよばれ、「舎人」を出した一族は「金刺舎人直氏」というウジ名でよばれるようになったらしい。さらに農民集団(部)出身の人びとは、のち七世紀後半に戸籍に登載されるさいに、「金刺(舎人)部」というウジ名を付けられたと考えられている。また他田舎人氏は、欽明の子の敏達(びたつ)(『日本書紀』によれば在位五七二~五八五)の王宮である訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)の宮号に由来すると考えられており、その構造は金刺氏と同様であるので簡単に述べるにとどめるが、六世紀後半、科野国造は敏達の王宮を警護する「トモ」(舎人)らを出仕するように命じられ、王宮で舎人として奉仕した子弟およびその一族は「他田舎人氏」と称され、かれらの生活費をまかなうため国造領域内に設定された農民集団は「他田(舎人)部」とされた。科野では他田舎人氏はのちの伊那・筑摩(つかま)・小県の各郡に存在していたことが文献史料から知られている。
なお、国造との関係で注目されるのは、埴科郡に所在する雨宮坐日吉(あめのみやにいますひよし)(え)神社(更埴市)の例大祭の存在である。この祭りでは、弓張石(ゆみはりいし)で弓を張り、森将軍塚古墳に向けて矢を射て、神社正面前の璽石(じいし)の前で「国造踊り」を舞うという民俗伝承がかつておこなわれていたことが知られている。この祭りがいつまでさかのぼる民俗行事であるか不明であるが、その名称や行事の内容は科野の国造を考えるうえで注目される。