善光寺平の部民

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このほか、大化前代(たいかぜんだい)において善光寺平で活躍した氏族や科野の国造領域内に設定された部民に関しては、従来、六国史(りっこくし)や『万葉集』など主に八世紀以降に編さんされた史料や、正倉院所蔵の白布の墨書などに見える人名、『和名抄(わみょうしょう)』や『延喜式(えんぎしき)』に見える地名(郷名)などをもとに、古代においては人口移動や里名(郷名)などの地名や神社名の変更や移動が少なかったとの前提のもとに、それを二~三世紀さかのぼらせることによって、その存在が推測されてきた。同時代の史料が少ないため、本節でも同様の手法を用いて善光寺平に設定されたと思われる「部」に関する史料を以下列挙しながら善光寺平の部民について略述する。

 善光寺平の国造領域内に設定されたと思われる「部」(部民)に由来する氏族のうち、まず、①王族の名や王宮の名を付けられた部(子代・御名代)としては、允恭(いんぎょう)の大后忍坂之大中津比売(おしさかのおおなかつひめ)(忍坂大中姫)のために設定されたのち、押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)皇子(「武烈紀の「信濃国の男丁」」の項参照)に伝領されたとされる刑部(おさかべ)のウジ名をもった人物と、崇峻(すしゅん)の王宮である倉橋(くらはし)宮の名を付した倉橋部(くらはしべ)のウジ名をもった人物とが、ともに水内郡に存在したことが知られる(『続日本紀(しょくにほんぎ)』神護景雲(じんごけいうん)二年条)。また、『日本書紀』敏達(びたつ)六年(五七七)二月紀に見える后妃の子代(御名代)としておかれた私部(きさいべ)(きさきべ)にちなむウジ名をもった人物が更級郡村神(むらかみ)郷(坂城(さかき)町付近)に存在したことも天平(てんぴょう)二十年(七四八)の正倉院文書から判明する。

 さらに、②豪族(伴造氏族)名が付けられた部としては、畿内の有力豪族である物部(もののべ)氏の部曲(かきべ)である物部(『三代実録』貞観九年条)が高井郡に、ヤマトタケルの名を残すためのものともいい、雄略(大泊瀬幼武(おおはつせわかたける))の子代(御名代)説もあるが、中央で建部君(たけるべのきみ)に統括された軍事的部民であるとする説が有力な建部(『続日本紀』神護景雲二年条)が更級郡に、尾張国造で継体朝以降ヤマト王権の有力豪族となった尾張氏の部曲にちなむ尾張郷(『和名抄』)および「尾張部」なる地名が水内郡に、それぞれ存在する。また、大王の宮の警護にあたった軍事的部民である佐伯部(さえきべ)を統括した伴造氏族である佐伯氏のウジ名をもった人物(「平城京出土木簡」)が水内郡に存在したらしいことも判明している。

 このほか、③朝廷における職務分担にちなむ名が付けられた部としては、神祇(じんぎ)関係の仕事にたずさわった神人の資養(生活費)を負担するために設定された部にちなむ神人部(かんひとべ)(みわひとべ)氏が高井郡保科郷(「平城宮出土木簡」)および埴科郡(『万葉集』)にいたことが従来知られていた。しかし、第二節五「群集墳と古墳の終末」で述べられているように、六世紀後半に爆発的に古墳数が増えていること、とくに長野市域にある古墳は、ほとんど六世紀後半以降につくられた群集墳であることから、群集墳を築造しながら文献史料にはあらわれないさまざまな有力氏族や有力農民集団の存在が想定されていた。