屋代遺跡群出土木簡と善光寺平の部民

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ところが、平成六年(一九九四)六月から十二月にかけて、上信越自動車道の建設にともなう発掘調査がおこなわれた屋代遺跡群(更埴市)から、七世紀後半から八世紀前半の年紀のある木簡(もっかん)(「屋代遺跡群出土木簡」)が発見された。そのなかで、屋代遺跡群周辺に存在した氏族にかかわる人名を記した木簡が多数解読され、これまではわかりにくかった善光寺平における大化前代の氏族や部民を推定する史料が一気に増加した。屋代遺跡群の性格は不明であるが、近くに埴科郡の郡家(ぐうけ)の存在が推定されている。以下、『長野県屋代遺跡群出土木簡』(長野県埋蔵文化財センター 平成九年・一九九七)などで紹介された新出の史料や新見解を紹介しながら、善光寺平に設定されたと思われる、①王族名や宮名を冠するウジ名をもち子代(こしろ)(御名代(みなしろ))の部にちなむ氏、②豪族(伴造氏族)の名および豪族私有民(部曲(かき))にちなむ氏、③ヤマト王権の朝廷における職掌にちなむ氏、について述べることにする。

 まず、①としては、(ア)刑部(おさかべ)、(イ)三枝(さえぐさ)部、(ウ)小長谷(おはつせ)部、(エ)金刺舎人・金刺部、(オ)他田舎人(埴科郡「船山郷柏村里」)・他田部、(カ)若帯(わかたらし)部(某郡「長谷里」)、(キ)生王(みぶ)部(埴科郡「船山郷井於里」)、が屋代遺跡群出土木簡によって知られるようになった。このうち、(ア)刑部、(エ)金刺舎人・金刺部、(オ)他田舎人・他田部は、前述のように従来からほかの史料によってその存在を知られており、部の性格はすでに述べたが、今回の木簡の発見により、善光寺平におけるそれらの氏族や部民の存在がさらに裏づけられることになった。ここでは、今回はじめて善光寺平でその存在が確認された部民の史料について述べることにする。

 はじめに、(イ)三枝部は、顕宗(けんぞう)天皇の父で、その歯が三枝のようであったことから名づけられた市辺押磐皇子(いちべのおしいわのみこ)の子代(御名代)であり、(ウ)小長谷部は、武烈(ぶれつ)天皇(小長谷若雀命(おはつせのわかささぎのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯)にちなむ子代(御名代)であると考えられている。小長谷部を名乗る人物は、従来、筑摩郡山家(やまんべ)郷(松本市)に存在し(正倉院宝物の白布銘)、八世紀初頭とされる下神(しもかん)遺跡(松本市神林)出土の墨書土器にも「小長谷部真□」なる墨書銘が確認されているが、善光寺平でははじめて確認されたことになり、更級郡の小谷(おうな)郷(篠ノ井・更埴市)との関連が想定されている。いっぽう、(カ)若帯部と(キ)生王部は、固有の宮号や王名が付けられておらず、六世紀末から七世紀はじめ、推古朝ころに設定されたと考えられている「部」で、(カ)若帯部は若い大王や大兄(おおえ)(のちの皇太子に相当する皇子)のために設定された部、(キ)生王部は壬生部・乳部ともあらわされ、従来の固有の皇子の名を冠する子代(御名代)を統合し皇子の経済的基盤として設定された部、であると理解されている。『日本書紀』推古十五年(六〇七)二月庚辰(かのえたつ)朔(一日)条に「壬生部を定む」とあり、このころ、統合されたらしい。さきに述べたように后妃の子代(御名代)としておかれた私部は更級郡に設定されていた可能性が強いので、六世紀末から七世紀はじめにかけて、固有の宮号や王号を冠する子代(御名代)だけでなく、それを整理統合して、設定された若帯部・生王(壬生)部・私部が善光寺平の科野国造の領域におかれていた可能性が高くなった。

 なお、『三代実録』貞観(じょうがん)三年(八六一)十月二十八日条に「信濃国の人壬生稲主(みぶのいなぬし)、妻の母刑部子刀自女(ことじめ)を殴殺(おうさつ)す」とあるように、壬生稲主と刑部子刀自女の娘とは夫婦であったことが知られていたが、信濃国とあるだけで何郡の人であるか不明であった。屋代木簡によれば、「生王部」(壬生部)が埴科郡に存在するので、壬生稲主も埴科郡に居住していたことも考えられなくもない。しかし、さきに述べたように刑部を名乗る人名は信濃国では水内郡の二例だけであるので(ほかに関連地名として佐久郡に刑部郷がある)、義母刑部子刀自女とその娘および夫の壬生稲主とが水内郡の人である可能性もある。いずれにしろ、これらのことから壬生部が善光寺平(のちの埴科郡か水内郡)に設定されていた可能性が高まったといえよう。

 つぎに、②としては、(ク)物部、(ケ)穂積(ほづみ)部、(コ)尾張部、(サ)守部(もりべ)、(シ)小野部、があげられる。このうち(ク)物部・(コ)尾張部についてはさきに述べたので、それぞれの「部」が設定された由来については繰りかえさないが、(コ)尾張部は従来、水内郡内の郷名(尾張郷)や地名(西尾張部・北尾張部)だけが知られていたにすぎず、ウジ名で確認されたのははじめてのことである。このほか、今回はじめて確認されたものとして、(ケ)穂積部、(サ)守部、(シ)小野部がある。まず(ケ)穂積部は物部氏と同族で大和国山辺郡穂積郷を本拠とする畿内豪族の穂積氏の部曲(かき)(私有民)とされており、(ク)物部といっしょに確認されたことは注目される。また(サ)守部は、河内国に本拠があり大宝二年(七〇二)の「御野国戸籍」に多く見えることから美濃国ともかかわりが深いとされる守氏の部曲と考えられている。そして(シ)小野部は、近江国滋賀郡を本拠とする小野氏の部曲であるとされている。このように畿内周辺およびのちの東山道沿いに本拠をおく有力豪族の私有民の集団(部曲)も善光寺平に設定されていたらしい。

 最後に、③いわゆる職業部のうち、ヤマト王権の朝廷(王宮)における職掌分担に関連し、とくに「人制」にかかわる部としては、(ス)酒人部(さかびとべ)、(セ)宍人(ししひと)部・宍部、(ソ)三家人(みやけひと)部、(タ)神人(かんひと)(みわひと)部、が見える。これらの部は、さきに説明した(タ)神人部を除くと、善光寺平でははじめてその存在が知られるようになった部である。まず(ス)酒人部は朝廷で造酒に携わった「酒人」の資養(生活費)をまかなうために設定された部であろうといわれている。ついで(セ)宍入部・宍部は宮廷で鳥獣の肉(宍(しし))の調理にたずさわった「宍人」の資養を負担するために設定された部であり、(ソ)三家人部は屯倉(みやけ)の事務にたずさわった「三家人」の資養を負担した部であるという。このほか、(チ)石田部と(ツ)戸田部が紹介されており、これらの実態については不明であるが、その名称および当地に屯倉が設定されていた可能性がある(後述)ことから、これらの部は善光寺平に設定された屯倉に所属し、田地の耕作にあたった「田部」の一種ではないかと考えておきたい。

 以上のことから、まず、善光寺平に、五世紀末から六世紀後半に設定されたといわれる王宮名や王名を冠した部(子代・御名代)が順次設定されていったようすがうかがえる。そして、ヤマト王権の宮廷組織が整備された六世紀末から七世紀初頭の推古朝前後には、后妃(大后)や皇子(大兄)・皇女などの具体的な名や宮号(固有名詞)を冠せず、従来の子代(御名代)を統合し后妃や皇子の地位に付随して設定した私部(きさいべ)(きさきべ)や壬生部(みぶべ)も善光寺平に設定されたことが確認される。つぎに、畿内の有力豪族の部民(カキ・私有民)も設定されており、尾張氏や物部氏がヤマト王権内で勢力を伸ばしたのは継体朝以降であることから、これらの部民は六世紀はじめ以降の設定と考えられている。さらに、「酒人」や「宍人」など、ヤマト王権の朝廷内の特定職掌にかかわる「○○人」姓の人びとを組織した「人制」とよばれる官司制の萌芽は雄略朝にあるが、本格的な展開は六世紀以降といわれているので、「人制」にかかわって設定された部が善光寺平におかれたのもやはり六世紀代のことと推定されている。