善光寺平と屯倉の設置

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また、屋代遺跡群出土木簡のなかに、屯倉(みやけ)の事務を担当したらしい「三家人」にかかわる部や石田部・戸田部など屯倉の耕作に従事した「田部」関係の部が存在することから、善光寺平に屯倉が設置された可能性が高くなった。

 屯倉とは大化前代のヤマト王権が直轄的に経営する農業拠点で、館舎・倉庫などの建物に田地が付随し、耕作には、田部はもちろん、国造が支配する周辺の農民が動員されたと考えられている。屯倉は畿内周辺では五世紀ごろから、各地の国造領域には六世紀ごろから設定されたらしく、『日本書紀』推古(すいこ)十五年(六〇七)七月庚戌(かのえいぬ)(三日)条によれば「国毎(ごと)に屯倉を置く」とあり、遅くとも七世紀はじめには全国の国造領域に屯倉がおかれるようになったらしい。さきに善光寺平には子代(御名代)の部が多く設定されたらしいことを指摘したが、「子代屯倉(こしろのみやけ)」(『日本書紀』大化二年条正月是月条)などという表記や、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』越部(こしべ)里条に見える「越部里」の旧名「皇子代(みこしろ)里」が「勾宮(まがりのみや)(安閑(あんかん))天皇」のときに「三宅」(屯倉)がこの村におかれ奉仕したことにより名付けられたとの伝承に見えるように、村落構成員全体を集団的に部に組織すると理解されている子代の部が屯倉と関係があることが指摘されている。これらのことをふまえると、科野でも善光寺平にも屯倉が設定された可能性は非常に高い。また、ヤマト王権側から見た善光寺平に屯倉を設置した理由は、科野の名産である馬や麻布を得るためと日本海側の蝦夷(えみし)と対峙していた越(越後)にたいする兵站(へいたん)地の役割を果たすためではないかと推測される。

 このように屋代遺跡群出土木簡の出現により、大化前代の善光寺平にさまざまな子代(御名代)や豪族の部曲(民部)が設定され、屯倉もおかれていた可能性が想定されるにいたり、当地について新たな歴史像を描くことが可能となった。そのようになると、大化前代の科野にかかわる伝承の信憑(しんぴょう)性に関連して、どうしてもふれておかなければならない問題として、①『日本書紀』武烈三年紀に見える「信濃国の男丁(よぼろ)」に関する伝承と、②『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』に引用されるいわゆる「善光寺古縁起」に見える水内地域に仏像を伝えたとされる若麻績東人(わかおみのあずまんど)に関する伝承、の信憑性の問題がある。最後にこれら二つの問題について述べることにする。