武烈紀の「信濃国の男丁」

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『日本書紀』武烈天皇三年十一月条によれば、「大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に詔(みことのり)して、『信濃国の男丁(よぼろ)を発(おこ)して、城(き)の像(かたち)を水派邑(みまたのむら)に作れ』とのたまう。仍(よ)りて城上(きのへ)と曰(い)う」と見える。武烈は五世紀末ころ在位した大王であるが、これは難解な記事で、なぜ、どこに「信濃国の男丁」が派遣され、何を作ったのかなど文意が不明であるため、従来この記事の信憑性を疑い、詳しくふれられることはなかった。ところが、屋代遺跡群出土木簡中に武烈(小長谷若雀命(おはつせのわかささぎのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯)にちなむ子代(御名代)であると考えられている「小長谷部」が発見されたことに加えて、平城京長屋王家邸宅出土木簡のなかに「木上司(きのへのつかさ)」・「木上御馬(みまの)(おんうま)司(つかさ)」と記した木簡が発見されたことから、武烈紀に見える「信濃国の男丁」については再検討の必要が生じてきた。

 武烈三年十一月紀によれば、「信濃国の男丁」が「城の像」を作った「水派邑」はその結果「城上」とよばれるようになったとある。このうち「水派邑」は『日本書紀』用明二年四月条に見える太子(ひつぎのみこ)であった押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の宮である「水派宮」に同じであるという。押坂彦人大兄皇子とは、敏達の子で有力な皇位継承者でありながら暗殺されたため皇位(大王位)に就かなかったが、舒明(じょめい)の父、皇極(こうぎょく)や孝徳(こうとく)の祖父であり、押坂彦人大兄→舒明→中大兄(なかのおおえ)(天智(てんじ))と継承され中大兄が孝徳天皇に献上した「皇祖大兄御名入部(こうそおおえみないりべ)」(『日本書紀』大化二年三月壬午(みずのえうま)〔二十日〕条)で知られる「皇祖大兄」のことであり、「皇祖大兄御名入部」は「皇室(大王家)領」中の「皇室領」といわれ、伝領されてきた刑部(押坂部)が中心的存在であった可能性が指摘されている。


図31「木上」(城上)の比定地 (人物叢書『長屋王』より)

 また「水派宮」については、従来、のちの大和国広瀬郡城戸(きど)郷(奈良県北葛城郡広陵町)に比定されていた。しかし、押坂彦人皇子は、のちの城上(きのかみ)郡恩坂(おしざか)郷(奈良県桜井市押坂)にあった押坂宮が本拠地であるとされ、押坂の地と押坂彦人皇子とが並々ならぬ関係にあったと推定されているうえに、寺川と栗原川の合流点(「水派(みまた)(みなまた)」とよぶべき地点)付近の桜井市上之庄に「木部」なる地名が残っている。また、「城上(きのへ)」に関しては、『万葉集』の高市皇子(たけちのみこ)の挽歌(ばんか)に見えるかれの殯宮(ひんきゅう)がおかれた「城上殯宮」およびその葬列のコースの分析や、高市皇子の子でその所領を継承した長屋王の邸宅跡から出土した「木上司」(長屋王家の家政機関のひとつで御田(みた)・御薗(みその)などの田畑を保有する)と記した木簡の検討が進展した。それによって、おおよそ所在地に注目すれば、「水派邑(城上)」(武烈紀)=「(押坂彦人大兄皇子の)水派宮」(用明紀)=「(高市皇子の)城上殯宮」(万葉集)=「(長屋王の)木上司」(長屋王家木簡)、というつながりが復元され、桜井市西部の小字(こあざ)「木部」(図31のA地点)付近がその所在地であるという見解が有力になった。


写真50 正倉院蔵白布の墨書銘 (正倉院宝物)

 この結果、「信濃国の男丁」が「城の像」を作ったとされる「水派邑(城上)」に関する記事の信憑性が高まったといえよう。「城上(きのへ)」は「柵上(きのへ)」と同音であることや、森林資源が豊かであった科野には、伊那郡の郡名の由来である猪名部(いなべ)が「能(よ)き匠者(たくみ)」(木工技術者)からきていること(『日本書紀』応神三十一年八月条)に象徴されるように、すぐれた建築や細工の技術者が存在していたと思われることから、「城の像」は城を兼ねた宮(宮殿)であると解釈され、その造営のために科野の国造に命じて「男丁」が徴発されたのではないかと推定される。

 また、後述するように、正倉院の天平勝宝四年(七五二)十月の墨書銘のある白布には、信濃国筑摩(つかま)郡山家(やまんべ)郷(松本市里山辺(さとやまべ)・入山辺(いりやまべ)付近)の物部東人の戸口(ここう)である小長谷部尼麻呂(おはつせべのねまろ)が調布と庸布を合成し一端(長さ四丈二尺・幅二尺四寸)にして納入し、それを担当の国司と郡司すなわち国医師の城上連柑足(きのへのむらじこうじたり)と筑摩郡大領の他田舎人国麻呂とが点検した旨が記されている。一般に国司は中央派遣官であるが、国医師は原則的には地元出身者を採用したといわれていることから、城上連柑足は地元信濃国出身である可能性が高い。さきの武烈紀の記事を信頼すれば、「水派邑(城上)」に徴発された「男丁」を統括した国造氏一族が、それにより現地での管理者(伴造)となり「城上」というウジ名を付けられ帰郷したか、あるいは造営の資材を調達するために設定された部の下級伴造が地名(宮の名)をとって「城上」のウジ名を付けられたか、といった可能性も考えられる。武烈朝における「男丁」派遣や水派邑(城上)での「城(き)の像(かたち)」の造営との関係が憶測される城上連出身者と、武烈の子代(御名代)とされる小長谷部をウジ名とする人物が、同じ布の墨書銘に記されていることは、偶然かもしれないが、科野の古代史を考えるうえでたいへん興味深い。なお、八世紀前半には長屋王家の家政機関である「木上御馬司」があり、そこに信濃から馬の飼育を担当した人物が派遣されていたので、科野と大和の城上(木上)との関係は、六世紀はじめから八世紀前半までつづいていた可能性がある。