『伊呂波字類抄』の「善光寺」縁起と若麻績氏

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橘忠兼(たちばなのただかね)は天養(てんよう)元年(一一四四)に「いろは」別では最初の国語辞書である『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』を著し、それは治承(じしょう)年間(一一七七~八〇)ころまでに三巻本に補訂された。これを鎌倉時代前期ごろまでに増補して成立したのが十巻本『伊呂波字類抄』である。その「せ」条・諸寺の「善光寺」の項目に、七世紀前半のこととして、つぎのように善光寺の仏像やその霊験(れいげん)とそれをもたらした若麻績東人(わかおみのあずまんど)に関する伝承(縁起)が記されている(原漢文、大東急記念文庫本による)。

期(斯(こ))の仏像、日本国に度(渡)り至り、歳を経て積ること、并(併(あわ))せて弐佰拾陸(にひゃくじゅうろく)歳の中、京底に流転(るてん)の年数五十歳、信濃国に請い降り、年員を経(ふ)ること一百六十六歳の仏なりと云々(うんぬん)。

 推古(すいこ)天皇十年[壬/戌]、四月八日、信濃国の人、若麻涜(績)東人、上洛し、下向の日、此の仏を伝え奉(たてまつ)る。自ら負いて下る。時の京は大和国高市(たけち)郡小治田(おはりだ)宮なり。路次(ろじ)の宿々に、敢(あ)えて背を離さず。国々の司(つかさ)々、此(これ)を聞き、彼に歳(感)じて宿(やど)り毎(ごと)に免田(めんでん)す。本国の麻績(おみ)村に下り着きて寺を造り、居(据え)し奉る。四十一ノ(年)礼拝供養(らいはいくよう)す。曠(皇(こうぎょく))極天皇元年[壬/寅]、時の京は大和国高市郡明日香(あすか)川原宮なり。長老の東人、水内の宅の庇(ひさし)に此(こ)の仏を渡し奉り、即ち草堂本善堂と号するは是(これ)なり。を作り、居し奉ること既に畢(おわ)りぬ。夙(つと)に仏を見奉(みたてまつ)るに、見え給(たま)わず。驚きて宅に還るに、儼然(げんぜん)として庇に有り。万人涙を流して随喜(ずいき)す。霊験(れいげん)[其の/一]のなり。宅を改めて寺を作る。善光寺、これなり。


写真51 伊呂波字類抄(10巻本) (学習院大学蔵)

 この伝承は『扶桑略記(ふそうりゃっき)』欽明(きんめい)天皇十三年条が引用する「善光寺縁起」と並んで成立年代が古いものとされている。伝えによれば、まず「善光寺」の仏像は、「日本国」に伝えられてから合計二一六年経過したが、このうち「京」にあった年数は五〇年で、「信濃国」にもたらされてから一六六年経過した仏像であることが知られる。そして「信濃国」の若麻績東人が、推古十年(六〇二)、小治田宮のある大和に行き、帰るさいに仏像を故郷に持ち帰り、まず「麻績村」に寺をつくった。四一年後の皇極元年(六四二)に(年をとり一族の)長老となった東人は「水内の宅の庇」にこの仏像を移し、その後、「草堂」をつくり、仏像をこの堂に移したところ、翌朝、不思議なことに仏像は東人の宅の庇にもどっていたという「霊験」があったため、自分の「宅」を改めて寺につくりかえ、これが「善光寺」(金堂ヵ)である。なお、「草堂」はいま、「本善堂」とよばれている。

 以上がこの伝承のあらましである。このうち、前半の段落に関しては、『日本書紀』や『扶桑略記』によって仏像が百済(くだら)から日本にはじめてもたらされたとされるのが欽明(きんめい)十三年(五五二)であり、それから五〇年後がちょうど信濃国に仏像がもたらされたとされる推古十年にあたり、さらに、それから一六六年後は奈良時代の神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)にあたる。そこで、この年にこの縁起が書かれていたことになると理解して、善光寺の「奈良古縁起」というべきものが成立していたと考える説もある。しかし、これを否定する考えもある。

 いっぽう、後半の段落からは、七世紀前半、水内に若麻績氏という有力豪族がおり、寺をつくるほどの財力をもっていたことが読みとれ、善光寺の成立をめぐっても早くから注目されてきた。しかし、大和から信濃国に仏像をもたらした人物(若麻績東人)が、『扶桑略記』などの記述とは異なり、ほかに見えないこと、伝承の内容が一見不合理で文意が通らないような部分があるなどの理由から、この伝承の信憑性を疑う傾向が強く、具体的な縁起の内容に関しては、史実とはかけ離れているものとして、近年はほとんどかえりみられなくなっている。

 しかし、この伝承(縁起)が最終的に成立した院政期から鎌倉初期ごろの知識による文飾を考慮に入れながら、この「善光寺」の「霊験」に関する伝承(縁起)を読みなおすと、院政期ごろ語られていた善光寺仏の由来や「霊験」譚(たん)、仏像を安置する善光寺(の本堂)の由来、さらには「本善堂」と称するもとは「草堂」であった建物の由来が整合的に語られているように思われる。また、屋代遺跡群出土の遺物や木簡により判明した事実や理解を参考にして、それらの縁起(伝承)をさらにさかのぼらせて七世紀前半のこととして考えた場合、当時のこととして理解される部分もいくつかあるのではないかと思われる。

 そこでこの史料を理解するため、まず、若麻績氏とはいかなる氏族であるかを確認しておく。

 若麻績氏は信濃ではこれ以外の史料に見えないが、『万葉集』巻二〇の四三五〇番の歌には上総(かずさ)国(千葉県)防人帳丁(さきもりちょうてい)の若麻績部諸人が、同巻四三五九番の歌には上総国長柄(ながら)郡防人上丁(じょうてい)の若麻績部羊(ひつじ)がそれぞれ見える。また『続日本紀(しょくにほんぎ)』延暦(えんりゃく)元年(七八二)五月乙酉(三日)条に下野(しもつけ)国(栃木県)安蘇(あそ)郡主帳(しゅちょう)の若麻績部牛養(うしかい)が見えるので、「若麻績部」は東国の上総・下野両国に存在したことが判明する。また、詳細は不明だが、一般に若麻績氏は麻績(おみ)氏の一種であると理解されており、「麻績部」は麻を紡(つむ)(績)ぎ、麻布を織る品部(職業部)のひとつであるとされ、ヤマト王権の伴造氏である麻績氏の配下と考えられている。

 なお、麻績部が子代(こしろ)(御名代(みなしろ))である可能性も否定できない。允恭(いんぎょう)の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)のために設定された刑部(おさかべ)、允恭が皇后の妹を妃として藤原宮においた衣通姫(そとおりひめ)のため諸国の国造に科して定めたと伝える藤原部、雄略の皇后で、日下(くさか)にいたという草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのみこと)のため定められたと考えられている日下部、安閑(あんかん)の皇后春日山田皇女のものと推定される春日部など、大后や妃の子代(御名代)の設定が知られている。これらに類するものとして、麻績部が息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘で継体(けいたい)の妃となった麻績娘子(おみのいらつめ)のために設定された子代(御名代)である可能性もまったくないわけではない。しかし、通説のとおり麻を紡(績)ぎ、麻布を織る品部と理解するのが無難であろう。

 さらに、律令制下の信濃国では、科野国造であったという金刺舎人氏の本拠地の伊那・更級両郡にそれぞれ「麻績(おみ)郷」がおかれている。また、屋代遺跡群からは、栽培用のためと思われる大量の麻の実が出土し、布(麻布)の製作に従事したらしい「布手(ぬのて)」として「金刺部」のウジ名をもつ男性名が記された木簡が発見されていることから、周辺に麻布の生産にかかわった在地の有力豪族が存在したこと(たとえば金刺舎人氏ヵ)が想定されている。そして、善光寺平にはさきに述べたように子代(御名代)が多く設定されている。これらのことなどを考慮に入れながらさらに推測すると、科野国造氏は領域内のうち、のちの伊那郡や更級郡の地に設定されたと思われる「麻績部」の管理者(下級伴造)として一族のものを任命し、その一族が麻績部の中央の伴造氏である麻績氏または若麻績氏を名乗り、その後、水内郡地域に生産の拠点ともなる「宅(ヤケ)」を形成していたことは十分想定できる。したがって、「麻績部」が子代(御名代)であるか、麻績氏など伴造氏の部曲(かきべ)(職業部)であるかといった点の当否はともかく、さきに述べたような理由から、大化前代の善光寺平に若麻績氏が存在してもおかしくない状況があるといえよう。

 つぎに、この縁起でもっともわかりにくいのは、「路次の宿々に、敢えて背を離さず。国々の司々、此を聞き、彼に歳(感)じて宿り毎に免田す」の部分である。とくに「路次の宿々」で「国々の司々」が「宿り毎に免田す」の意味がこのままでは理解しがたい。一般に「免田」は平安時代中期以降見える用語で、荘園(しょうえん)・国衙(こくが)領において賦課される官物(かんもつ)や公事(くじ)が免除された田地、またそれらの賦課を免除することをいう。この縁起が院政期に書かれたものであることを考慮に入れると、「縁起」がいおうとすることは、「国々の司々は若麻績東人が宿泊するごとに課せられるなんらかの租税や負担(賦課)を免除した」という意味であろう。

 それでは、免除された賦課とは何であろうか。『日本書紀』大化二年(六四六)三月甲申(きのえさる)(二十二日)条の「詔」の第二部には、一二段からなる旧俗(古いしきたり)の改廃に関する記事が見える。そのうち第六段において、「役(つか)わるる民(おおみたから)」(役民(えきみん))が往還の途次、「路頭(みちのほとり)」で飯を炊く場合、「路頭の家」はそれをきらって強制的に「祓除(はらえ)」(罪を犯したものにたいしてつぐないのため出させる物品)を課すという旧俗を廃止させている。この記事から、大化二年以前には、王宮において使役される人びと(役民)が路次で休んで食事をとる場合、地元の人びとが往還の役民からなんらかの物品(一種の通行税)を徴収していたことが知られる。このようなことは、右述のように『日本書紀』によれば、大化二年にいたって廃止を命じられているので、推古朝においては大王の宮がある大和から科野までの途中でもおこなわれていたらしい。こうした習俗の存在をもとに「縁起」の意味を解釈すれば、「国々の司々」は各国の「国造」の言い換えであり、「宿り毎に免田す」とは、通常であれば科野に向かう途中で若麻績東人が食事のためとる休息ごとに地元民が物品を徴収することを、各国の国造が認めなかったとの意味に解釈できる。

 以上のような理解をふまえて、「縁起」の内容をふたたび読み直すと、つぎのように解釈できる。

 科野国造の領域内、のちの伊那郡または更級郡の麻績郷の地域に、部曲または子代(御名代)として「(若)麻績部」がおそらくは六世紀ごろ設定された。これを統括したことにより若麻績(部)氏を名乗った国造一族など有力豪族出身の子弟のなかには、推古天皇の小治田宮(おはりだのみや)に上番して仕えたか、麻布などの貢納物を運ぶかして、大和に出向いた「若麻績東人」とのちに称されるような人物がおり、帰郷するさいに外国(百済)からもたらされたとの言い伝えがある仏像を得て持ち帰る。その途中では、通常の場合、往還の役民が休んで食事をするさいに地元の人びとが物品を取り立てる風習があったが、仏像を背負って運ぶ東人の姿を見て感動した途中の国造はこうした取り立てをおこなわせなかった。東人は帰郷後、まず「麻績村」(のちの伊那郡または更級郡の麻績郷)に「寺」をつくり、そこに仏像を安置した。四一年後のある日、一族の長老となった東人は「麻績村」からもうひとつの勢力基盤である「水内」に構えた「宅」(ヤケ)内に仏像を移し、建物の母屋部分から出た「庇」部分に安置していたが、新たに仏像を安置する「草堂」を別につくり、そこに仏像を移し置いた。ところが、たいへん不思議なことに、翌朝、仏像は最初に東人が安置した「庇」部分にもどっていたという「霊験」があったので、「宅」を改造して「寺」とした。

 右のように「縁起」を解釈できるとすれば、大化前代の社会でもありうることと考えられ、できあがった寺も本格的な伽藍(がらん)をもった大寺院と考える必要もなく、近年の豪族居館の発掘例を参考にすれば、国造一族など有力豪族の宅(ヤケ)を改造して寺としたと理解でき得ない話ではない。さらに七世紀後半から八世紀前半とされる屋代遺跡群から発見された「布手」の木簡や大量の麻の実により、在地における貢納目的の大規模な布生産の拠点の存在が推定されているので、七世紀中葉において、麻の栽培や麻布の生産によって富を蓄積し所領を形成した豪族のなかには、私宅を喜捨して私寺を建立したものがいたとしてもおかしい話ではない。

 さらに、いわゆる「奈良古縁起」が神護景雲二年ごろに作成されたとの説に関連して興味深いのは、史料が少ない信濃国に関して、神護景雲二年はつぎに示すように異例ともいうべきほど記事が多い年で、それも「善光寺縁起」に関連する地域のものが多いことである。まず、『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』によれば、①正月二十八日、中央政府は信濃国牧主当で伊那郡大領の金刺舎人八麻呂(かなさしのとねりはちまろ)の申請にたいする行政命令を伝えている(第三章第二節参照)。ついで『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、②五月二十八日、更級郡の建部大垣と水内郡の刑部智麻呂・倉橋部広人が善行を賞され田租を終身免除された記事があり、また③六月二十三日、伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねりちよめ)が二五歳で夫に死別してから約五〇年再婚もせずに貞節を守ってきたことを賞する記事が見える。

 これらの記事は、奇(く)しくも「麻績郷」がおかれた更級郡や伊那郡、さらに東人の晩年の居所である水内郡に関連する記事であり、科野国造氏の一族とされる金刺舎人氏・他田舎人氏が見えることも注目される。また、④この年七月一日には信濃介(すけ)に濃宜水通(のぎのもいとり)が任命されるという国司の交替がなされた。したがって、これらの関係で水内郡にあったのちに「善光寺」と称される寺に安置された仏像に関する縁起や霊験譚(れいげんたん)が、国司などを通じて中央政府または中央の官人や僧侶に伝えられ、神護景雲二年の時点において書きとめられ、『伊呂波字類抄』に引く霊験譚のもとになった可能性はほかの年に比べかなり高いと考えられる。ただし、「善光寺」の仏像が百済の聖明王がもたらした仏像そのものであるとか、それからちょうど五〇年後(推古十年、六〇二)の釈迦誕生の日(四月八日)に科野にもたらされたとするのは、奈良時代における創作の可能性が高く、百済伝来との伝承のある仏像が、推古朝のころに大和より科野にもたらされ、皇極朝のころに水内地方に移されたと考えるべきであろう。