ヤマト王権の動揺と東アジア情勢の変化

288 ~ 289

五世紀後半、ワカタケル大王(雄略)のころ、日本列島のかなりの部分を統一したヤマト王権は、中国や朝鮮半島諸国との外交関係を独占していたため、中国や朝鮮の先進的な文化・文物を積極的に導入し海外の産物や技術を国内で独占的に活用することができた。その結果、大和地方を中心としたのちに畿内(きない)とよばれる地域は、周辺地域に比べ高い生産力や文化を保つことができたが、やがてそれらは地方にも波及していった。

 とくに、朝鮮半島からもたらされた鉄資源から作製された農具が、ヤマト王権から国造を通じて地方にも普及すると、生産力が高まり、六世紀以降、各地の地方中小豪族のなかには小規模ながらも古墳(群集墳)を築くものが出現した。善光寺平でも、のちの高井郡域に出現した大室(おおむろ)古墳群(松代町大室)はその代表例といえよう。その背景には、地方、とくに国造の領域内に設定された部民(べみん)や屯倉(みやけ)などを通じてヤマト王権の支配が浸透した結果、従来その地域(「クニ」)を代表していた国造など在地の首長(有力豪族)の秩序がしだいに崩れはじめ、鉄製農具の普及により農業生産力を高め、ヤマト王権と直接関係を結ぶなどして新たに台頭しはじめた中小豪族(家父長を中心とした自立的な家族)の成長があると考えられている。また、各地の国造は、朝鮮半島への軍事介入にもヤマト王権の国造軍に編成され動員されたらしく、さきに述べたように『日本書紀』継体紀や欽明(きんめい)紀には百済(くだら)などに派遣された科野国造氏出身らしき人物やその子孫が見える。

 このようなヤマト王権による地方支配の浸透にたいして、五世紀後半から六世紀前半にかけて、吉備(きび)(岡山県・広島県東部)や筑紫(つくし)(福岡県)そして武蔵(むさし)(東京都・埼玉県)など各地の国造のなかには反乱を企てる勢力もあったが、いずれもヤマト王権によって鎮圧された。いっぽう、大王家を中心に大和地方に勢力を有した有力豪族が合議制をおこなっていたヤマト王権内部も、雄略の死後、王統が途絶えがちなこともあり、葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・大伴(おおとも)・物部(もののべ)・蘇我(そが)などの有力氏族が対立抗争を繰りかえしていたが、六世紀末には、仏教の受容に賛成するなど海外の文化の摂取に積極的で百済系渡来氏族との関係も深い蘇我氏がヤマト政権内の権力をにぎった。

 ちょうどそのころ、南北に分裂していた中国に統一政権が出現し、強大な中央集権国家が成立するなど、東アジアでは大変動が始まろうとしていた。まず、北朝の北周(ほくしゅう)の外戚であった楊堅(ようけん)は隋(ずい)をたて文帝(ぶんてい)(在位五八一~六〇四)となり、五八九年、南朝の陳(ちん)を滅ぼして南北朝を統一し強大な中央集権国家が成立した。文帝の定めた官制・律令(りつりょう)・田(でん)制(土地制度)などは唐代の律令制の基礎となった。また文帝を殺して帝位についた煬帝(ようだい)(在位六〇四~六一八)は南北の運河を開通させたり、対外的にも高句麗(こうくり)遠征をするなど積極的な政策をとった。煬帝の高句麗遠征は失敗し、隋は煬帝の死後ほどなく滅亡するが、そのあとを継ぎ、六一八年に建国した唐(とう)の国家制度や文化はその後、朝鮮半島諸国はもちろん、海を隔てた日本列島(倭国(わこく))の国家形成にも大きな影響をあたえた。とくに、唐代になっても引きつづいておこなわれた高句麗にたいする軍事的圧力は、後述するように朝鮮半島諸国の国家においてなされた支配者層における権力闘争や権力の集中化の要因となったとされている。