推古朝の政治と科野

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用明天皇の没後、五八七年(用明二年)、大王位や仏教の受容をめぐり、穴穂部(あなほべ)皇子を推す物部守屋・中臣勝海(なかとみのかつみ)らが、額田部(ぬかたべ)皇女(推古(すいこ))・泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻(すしゅん))を擁する蘇我馬子(うまこ)らに滅ぼされ、さらに、即位した崇峻は五九二年(崇峻五年)、蘇我馬子に暗殺された。その結果敏達(びだつ)の后推古が即位し、廐戸(うまやど)皇子(聖徳太子)や蘇我馬子とともに、冠位十二階の制定(六〇三年)、憲法十七条の制定(六〇四年)、国史の編さん(六二〇年)、遣隋使および留学生(るがくしょう)・留学僧の派遣、仏教の興隆などの政治改革をおこなった。

 これらの政策のうち冠位十二階制は、六つの徳目(とくもく)の名を付けた冠位である徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて、合計一二階で臣下を秩序づけた制度である。隋との対外関係再開を契機に制定されたものであるが、中央氏族の出身の個人に授けられることが多く、科野の国造氏のような地方豪族まで冠位が授けられた可能性は少ないといわれている。また、国史の編さんでは、『天皇記』『国記』のほか『臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・百八十部并(ももやそのとものおあわせ)て公民(おおみたから)等の本記』が著されているが、これには科野国造に関する記述もあったと思われる。

 推古朝と科野の関係をみておくと、高句麗(こうくり)からの渡来人が科野に移住したらしいことが知られる。『日本後紀』延暦(えんりゃく)十八年(七九九)十二月甲戌(きのえいぬ)(五日)条によれば、「小治田(おはりだ)・飛鳥(あすか)の二朝廷の時節」すなわち推古朝と舒明(じょめい)朝に、「高麗(こま)」(高句麗)から渡来した伝承をもつ信濃国在住の高句麗系渡来人が日本の姓(ウジ名)を賜ることを申請している。申請したのは信濃国各地に住む卦婁真老(けるのまおい)・後部黒足(こうほうのくろたり)・前部黒麻呂(ぜんぽうのくろまろ)・前部佐根人(さねと)・下部奈弖麻呂(かほうのなでまろ)・前部秋足(あきたり)、小県郡在住の上部豊人(じょうほうのとよひと)・下部文代(ふみよ)・高麗家継(こまのやかつぐ)・高麗継楯(つぐたて)・前部貞麻呂(さだまろ)・上部色布知(いろふち)の一二人である。申請は許可され、それぞれ新しい姓を賜っている。

 このうち前部秋足らには「篠井(しののい)」、前部黒麻呂には「村上」の姓(ウジ名)があたえられたが、これはがれらの居住地の地名をとって姓(ウジ名)としたものである。「篠井」と「村上」はともに更級郡内に地名が残っており、隋・唐帝国の高句麗遠征の影響をうけ激動する高句麗から推古・舒明朝に渡来した人びとの末裔(まつえい)がかれらであることが知られ、当時、高句麗系渡来人が善光寺平に移されていたことがわかる。これら高句麗からの渡来人の定住理由について、積石塚古墳や馬具副葬古墳の存在、令制牧の展開と関連させて理解する考えもある。また、科野におけるこうした渡来人の存在は、早くから仏教が科野に伝えられていたことを推定させる。さきに述べた『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』が引く「善光寺縁起」が語るような、七世紀前半における科野への仏教伝来の素地を形成していたといえよう。