「大化改新の詔」と「東国国司」の派遣

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科野の地にも、政権内でのクーデター勃発の情報は飛鳥板蓋宮に出仕していた科野国造の子弟らによってほどなく伝えられたと思われるが、クーデターから二ヵ月後の八月、東国と倭(やまと)(大和)の六県(むつのあがた)に使者が派遣された。東国と倭の六県はともにヤマト王権を支える重要な権力基盤であり、とくに東国は舎人(とねり)などヤマト王権の主要な軍事力の供給源であった。そして倭の六県とならんで東国に使者が派遣されたのは、東国と深い関係のある蘇我本宗家滅亡後の東国の動揺を防ぎ、東国を掌握するためであると考えられている。

 東国に派遣された使者は、『日本書紀』によれば「東国国司」とよばれ、東国を数ヵ国ずつ八つの地域に分けて「国司」(長官一人・次官二人など約一〇人で構成)が派遣された。その主な任務は、これまでの国造による地方支配を改変するのではなく、国造など地方豪族の支配の実態を掌握するため、戸口(ここう)数・田積(でんせき)(人口と耕地面積)の調査、「国」ごとに兵庫を建て武器の集積と管理の徹底をおこなうことであったらしい。「東国国司」が派遣された地域は明確ではないが、伊勢・三野・越(のちの越前)より東の地域とされ、「国司」が接触した在地の族長のなかに「朝倉君」と「井上君」が見える。「朝倉君」はのちの上野(こうずけ)国那波(なは)郡朝倉郷(群馬県前橋市)の在地豪族と推定され、「井上君」はのちの信濃国高井郡井上(須坂市井上)の在地豪族と考える説もある。もしそうであるとすると、毛野(けの)から科野にかけて派遣された「東国国司」がいたことになる。

 改新政府は十二月、都を飛鳥から難波(なにわ)(長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)、大阪市)に移し、翌大化二年(六四六)正月、四ヵ条の詔(みことのり)(「大化改新詔」)を下した。「大化改新詔」の内容を簡単に紹介すると以下のとおりである。

 第一条は、豪族が所有していた子代(こしろ)の民(たみ)と屯倉(みやけ)、部曲(かきべ)の民と田荘(たどころ)を廃止するなど私地私民の廃止をおこない、大夫(たいふ)(国政の審議に参加した有力氏族の代表者)以上に食封(じきふ)(一定地域の戸口を指定し、租(そ)や調庸(ちょうよう)の大部分や、仕丁(しちょう)を支給する制度)を、一般官人に布や帛(はく)を支給するなど、国家が禄を支給するいわゆる公地公民制の実施宣言。

 第二条は、京・畿内国・「郡司(ぐんじ)」などの行政組織の設置、防人(さきもり)・関所・駅制など交通・通信制度の整備をめざす。

 第三条は、戸籍・計帳(国内の戸口数・調庸物数・調庸などを負担した男子〔課口〕数などを書き上げた課税の基本台帳)を作成し、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法を定め、人民を五十戸(こ)一里(り)とする村落制度により地域的に編成することをめざす。

 第四条は、旧来の賦役(ぶやく)を止め、田の調(みつぎ)・戸別(へごと)の調など種々の新たな賦課(ふか)基準を設定し租税制度の整備をおこなう。

 これらの条文のうち、たとえば第二条の地方行政区画のうち「郡(こおり)」は、出土史料や金石文などによって孝徳朝に設定されたのは「評(こおり)」であったことが実証され、大宝(たいほう)元年(七〇一)に完成した大宝令(りょう)の令文によって修飾されていたことが判明した。このほかにも四ヵ条の詔には大宝令(養老令)の条文と類似する条文があることから、大化二年当時、このような詔が出されたのではなく、八世紀前半に完成した『日本書紀』の編さん過程で「大化改新詔」の文章に当時の知識による文飾がほどこされたのではないかとの議論もあり、きびしい史料批判や論争がつづけられていて、この論争はいまだ決着していない。しかし近年、『日本書紀』の記述のうち、七世紀中葉から後半にかけてのものは、全体の傾向として出土木簡(もっかん)や遺跡・遺物などによって、その記述内容が裏づけられてきているものが増えていることから、「大化改新詔」の大筋は当時のものであったのではないかとの認識もふたたび高まっている。そのような理解にたてば、「大化改新詔」は全体として、旧来の部民(べみん)制や国造制を否定し、中央集権的な国家支配をめざしたものであったと考えられよう。

 またその後、大化二年三月には、さまざまな習俗の改正を命じる詔が出されている。そのひとつはいわゆる薄葬令で、古墳の造営や殯(もがり)の規制、殉死(じゅんし)の禁止などを命じている。養老令の官撰注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』職員令弾正台(しきいんりょうだんじょうだい)条の注釈には、信濃国の「俗」(風俗・習俗)として夫が死ねば、「婦」(妻)もそれに殉ずる風習があったことを伝えているが、大化二年当時も依然として、科野ではそのような殉死の風習が存在していたのであろう。このほか、婚姻や地方との交通にかかわる習俗についての改革が出されているが、廃止された習俗のひとつには「善光寺縁起」のところで紹介したヤマト王権の宮などで奉仕する役民(えきみん)が往還する途中、路頭で炊飯する場合、路頭の家が「祓除(はらい)」と称して一種の通行税をとる習俗があった。これらの廃止は、隋・唐のような律令による中央集権的な国家を形成する前段階として、未開の習俗を改め、律令制を導入する社会の環境を整えるための政策であったと理解されている。