大化二年三月、東国に派遣された使者が、国造(くにのみやつこ)や新しく設定された評の官人の候補者を連れて帰ってきているほか、八月、上京していた国造や評造(こおりのみやつこ)候補者が地元に帰るさいにふたたび使者が派遣された。その後も、使者の派遣が繰りかえされるなか、孝徳朝に国造の「クニ」(国)が分割され、大化五年(六四九)、全国的に「コホリ」(評)が設置(立評)されたと考えられている。「評」は、地方において国造以外の新興の豪族が成長するなか、国造の「クニ」を分割して二から三の評を立てるという地域を原理とする行政区域を設定し、領域により人民を一定の戸数(五十戸(さと))に編成し、一定の賦課基準で調(ミツギ)や仕丁(ヨホロ)の徴発をめざした。ただし、国内のほぼ全域で評の下に五十戸一里制が施行されたのは、はじめての全国的な戸籍である天智九年(六七〇)の庚午年籍(こうごねんじゃく)のころといわれる。「改新詔」で示された、土地の国有を原則とし、良民に口分田(くぶんでん)を分かち貸与する班田収授の制や租庸調などの租税制度(後述)もこのころには整備されたと考えられている。
科野でも、大化末年ごろに、科野国が成立し、中央より「国宰(こくさい)」(「国司」)が派遣され、その下に「イナ(伊奈)」評・「スワ(諏方)」評・「ミノチ(水内)」評・「シナノ(科野)」(ハニシナ・サラシナ)評などの評が設置され、旧来の国造氏や新興の有力豪族が評造など評の官人に任命されたと想定されている。現在確認できる科野国内の「評」の史料は、藤原宮跡で出土した荷札木簡(にふだもっかん)に「科野国伊奈評鹿□大贄(おおにえ)」と見えるのが確実な史料である。