阿倍比羅夫の蝦夷討征と科野

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白雉(はくち)五年(六五四)十月、孝徳天皇が亡くなると、皇極天皇がふたたび即位し、斉明天皇となった。斉明朝には、唐の膨張政策に起因する東北アジアにおける民族移動、とくにロシアの沿海州からサハリンをへて南下するツングース系民族の動きをうけ、東北地方北部の日本海沿岸地域で活発な動きを見せる蝦夷(えみし)と粛慎(みしはせ)にたいして、六五八年(斉明四年)から六六〇年にかけて大規模な征討がおこなわれた。蝦夷にたいしてはそれより以前、越(こし)のうち、のちの越後地域に城柵(じょうさく)が設けられていた。大化三年(六四七)には淳足(ぬたりの)柵(き)(さく)(新潟市沼垂(ぬつたり)ヵ)、翌同四年には磐舟(いわふね)柵(新潟県村上市付近)、がそれぞれ設置され、蝦夷の進攻に備えているが、『日本書紀』大化四年是歳条によれば、磐舟柵の設置にさいしては、辺境の防衛や開拓・農耕をおこなわせるために、越と科野から農民を選び移住させ柵戸(きのへ)(さくこ)としている。その後、斉明四年(六五八)以後、数次にわたり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が大船団を率いて遠征し、日本海沿岸で蝦夷と大規模な戦闘をおこない、蝦夷勢力を後退させている。

 ここで注目されるのは、のちの越後国蒲原(かんばら)郡に小布勢(おぶせ)神社・小伏郷(おふせごう)・日置郷(ひおきごう)があるのにたいして、信濃国にも高井郡に小布施の地名があり、更級郡に式内社(しきないしゃ)として布制神社と日置神社が存在し、越中国にも日置神社と布施神社が存在することである。蒲原郡の地は、信濃とは千曲川(信濃川)の水運を、越中とは日本海の水運を通じてつながるが、まず布施氏は阿倍氏の一族であり、布施の地名や神社は阿倍比羅夫との関係で注目される。また、日置部は、祭祀(さいし)のさいの聖火やその材料を調達した宗教的部民とも、武器鍛錬のさいの炭焼きに従事した職業部民ともいわれており、いずれとも決めがたいが、信濃や越中に存在する地名や神社と同名のものが越後に存在するのは、大化四年の柵戸の配置や斉明朝の阿倍比羅夫の遠征に関連する人の移住や移動にともなうものと推定する説もある。

 官道(かんどう)である北陸道が完成するのは、近年の発掘調査により七世紀後半、天武朝ころと考えられていることから、孝徳朝や斉明朝において、日本海側の蝦夷にたいする戦略上、善光寺平の地域は千曲川の水運を通じて重要な兵站(へいたん)地の役割をになったと推定されている。北陸道開設以前において、蝦夷と接する越後の辺境地域の防衛や進攻を支えたルートや政策としては、さきに述べたようにヤマトタケルと碓氷(うすい)峠でわかれて越に向かった吉備(きび)武彦が通ったと想定される千曲川および川沿いのルートや善光寺平に設置された屯倉(みやけ)の重要性が注目される。