白村江敗戦後の政策と屋代遺跡群出土「乙丑年」木簡

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もうひとつ斉明朝において対外的になされた大きな政策は、六六〇年に唐と新羅の連合軍のために滅ぼされた百済(くだら)の王族など亡命者を受け入れるだけでなく、鬼室福信(きっしつふくしん)を中心とする百済遺民(いみん)による復興運動を支援するため救援軍を旧百済領に派遣したことである。斉明はみずから前線基地である筑紫(つくし)におもむくが、六六一年(斉明七年)七月、筑紫の朝倉宮で亡くなる。しかし、中大兄は即位せず称制(しょうせい)のまま政権を執り、六六三年(天智二年)八月、水軍を派遣し、現在の韓国南西部の白村江(はくすきのえ)河口付近で、劉仁軌(りゅうじんき)が率いる唐の水軍に壊滅的な大敗を喫した。この結果、倭国(日本)は朝鮮半島での足場をまったく失うとともに、唐の進攻に備え、対馬の金田城(かなたじょう)から北九州の大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)周辺の水城(みずき)・大野城・基肄城(きいじょう)、さらに瀬戸内海(長門(ながと)城・屋島城)をへて生駒山地の高安(たかやす)城(大阪府八尾市付近)におよぶ要地に朝鮮式山城(じろ)を築くなど防衛を固めた。内政では、六六四年(天智三年)、二六階の冠位制を定めたり、諸氏の氏上(うじのかみ)を定め、六七〇年(天智九年)にははじめての全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成し、「近江令(おうみりょう)」を制定するなど律令制国家への歩みをすすめることとなる。


写真52 屋代遺跡群出土46号木簡
長野県埋蔵文化財センター提供

 さて、白村江の戦いと科野との関係にかかわって、『日本書紀』に興味深い記事が見える。それは斉明六年(六六〇)是歳(このとし)条の記事で、「科野国言(もう)す。『蠅(はえ)群がりて西に向いて巨坂(おおさか)を飛び踰(こ)ゆ。大きさ十囲許(といだきばか)り。高さ蒼天(そうてん)に至れり』。或いは救いの軍の敗績(戦争にひどくまけること)の恠(しるまし)を知る」と見える。これは、「科野国」(科野の国宰)からの報告として、蠅の大群が西に向かい、「巨坂」(神坂峠ヵ)を飛び越していったが、それは一〇人が抱えるほどの大きさのもので、非常に天高く舞い上がっていったと伝えるものである。この不思議な現象を『日本書紀』の編者は、白村江の敗戦の予兆と解釈している。

 ところで、屋代遺跡群出土の木簡のなかには、第三水田面の湧水(ゆうすい)溝出土からつぎのような木簡が出土している。

  (表)「乙丑(きのとうし)年十二月十日酒人」

  (裏)「他田舎人(おさだのとねり)古麻呂」

 この木簡(四六号木簡)は冒頭に干支年を記してあるが、このような木簡は一般に大宝令以前の記載様式とされている。出土遺構は八世紀前半に埋まったものの、湧水溝の埋めもどし土から出土したと解釈し、「乙丑年」は六六五年(天智四年)に比定されている。現在知られている古い干支年紀木簡には、大阪市難波宮跡出土の「戊申(つちのえさる)年」(大化四年、六四八)、兵庫県三条九ノ坪遺跡出土の「壬子(みずのえね)年」(白雉(はくち)三年、六五二)、藤原宮跡出土木簡の「辛酉(かのととり)年」(六六一)があることから、屋代遺跡群出土四六号木簡は平成十一年(一九九九)末現在、全国で四番目、地方では二番目に古い年紀木簡となる。

 しかし、一般に庚午年籍(六七〇年)によって「定姓」(氏姓を定めること)がなされたと考えられていることから、それ以前の「乙丑年」(六六五)に「他田舎人古麻呂」と記されていることに関してはやや時期的に早すぎるのではないかという意見もあり、六六五年という年代比定にたいしては疑問も示されている。また文章が短いことから、「乙丑年」がまちがいなく木簡の冒頭部分であるとは断定しにくい。さらに屋代遺跡群から出土したその他の年紀が記された木簡は、第四水田面出土の一三号木簡「戊戌(つちのえいぬ)年」(文武二年、六九八)、四四号木簡「(和銅ヵ)七年」(七一四年ヵ)、さらにその上の第三水田面出土の九〇号木簡・九二号木簡「養老七年」(七二三)、六二号木簡「神亀□(三ヵ)」(七二六年ヵ)、であり、六六五年は他の年紀のわかる木簡のうちもっとも年紀の近い木簡からも年次が離れすぎている(六九七年からは三二年も離れている)。そこで、たとえば六六五年に比定される「乙丑年」を干支一巡六〇年繰り下げて七二五年(神亀二年)とすれば、同じ第三水田面から出土した六二号木簡・九〇号木簡・九二号木簡とほぼ同年代であり、そう考えれば、通常では起こりにくい古い時代の遺物が掘り返しなどによって新しい時期の層位に混入したなどと考えなくてもすむ。

 このように「乙丑年」の木簡の年代比定は現時点では六六五年とも七二五年とも決めかねることに加えて、その結論は日本律令国家の形成過程を考えるうえでも重要な問題をはらむだけにその年代比定はより慎重であるべきであり、屋代遺跡群の遺構や遺物の性格に関する今後のさらなる研究、庚午年籍や「定姓」に関する研究、さらには七世紀後半の年紀を有する宮都や地方出土木簡の発掘例の蓄積にゆだねるべきであろう。したがって、この木簡の内容と庚午年籍との関係については検討を保留しておく。