壬申の乱で科野の兵が活躍した結果、内乱に勝利した大海人皇子にとって科野はとくに関心をもった地域のひとつになったと思われる。大海人は六七三年(天武二年)二月、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位し、天武天皇となった。天武は、地方豪族の官人への出身資格の法(六七六年)や官人の勤務評定や位階と官職に関する法を定め、さらに八色(やくさ)の姓(かばね)(六八四年)、諸王十二階・諸臣四十八階の位階制(六八五年)など、法にもとづく官僚機構の形成に努めるとともに、官人たちの新たな経済的基盤となった食封(じきふ)についても改革に着手した。また、天武朝には、天皇を中心とした律令制にもとづく国家をめざしたさまざまな施策がなされるが、「天皇号」もこのころから使用されるようになったとする説もあり、国家の基本法である律令の編さんもすすめられるほか、行政区画としての畿内や七道、そして令制の国が成立し、律令国家にふさわしい都城の造営にも関心が注がれた。
天武十二年(六八三)十二月、天武天皇は「凡(およ)そ都城・宮室は一処にあらず、必ず両三を造らん。故(かれ)、まず難波(なにわ)に都つくらんと欲(おも)う」という詔を出し、唐の長安・洛陽をまねて、複都制を採用し、難波(大阪市)を陪都(ばいと)とした。さらに『日本書紀』天武十三年二月庚辰(かのえたつ)(二十八日)条によれば、三野王らを「信濃」に派遣して「地形」などを調査させているが、「是(こ)の地に都つくらんとするか」と記されているように、遷都またはさらに別の陪都を置こうとしたらしい。三野王はその名から乳母の氏族が三野国に関係があったと想定され、壬申の乱では功績をあげており、天武二年十二月には「高市大寺(たけちのおおでら)(大官大寺)を造る司(つかさ)」に任命されているほか、天武十一年三月には「新城(にいき)」に派遣され新しい都城の造営のため地形を調査しているので、遷都(せんと)や造営の調査には最適任者であった。そして天武十三年閏(うるう)四月壬辰(みずのえたつ)(十一日)に三野王らは「信濃国の図」を天皇に進上しているので、科野への遷都(陪都)計画は本格化したらしいが、そののち、この計画はどうも頓挫(とんざ)したらしい。
しかし、翌天武十四年十月には軽部足瀬(かるべのたるせ)・高田新家(たかたのにいのみ)・荒田尾麻呂(あらたおのまろ)らを科野に派遣し、行宮(あんぐう)(かりみや)を造成させている。『日本書紀』にはおそらく「束間(つかま)の温湯(ゆ)」に行幸しようとする予定だったのであろうか、と注記されている。行幸のための行宮が造営された束間の湯は松本市浅間温泉または美ヶ原(うつくしがはら)温泉に比定されているが、どうもじっさいの行幸はなかったらしい。派遣された官人のうち高田新家は壬申の乱で活躍した功臣の一人で、「安八磨評」の「湯沐令」の一人(主稲(しゅとう))であったことから、さきに述べたように科野の事情に詳しい人物であったと推定される。このような科野への遷都(陪都設置)計画や束間行宮建設など天武天皇が科野に関心を寄せた理由については諸説あり、定説はないが、背景には壬申の乱における科野の兵の活躍に起因するなんらかの動機があったのではないかと思われる。
なお、平成十一年(一九九九)一月、奈良県高市郡明日香村の飛鳥池遺跡から「富本(ふほん)」の二字が刻まれた銅銭(富本銭)が「丁亥(ひのとい)(ていがい)年」(六八七)と記された木簡と同じ地層から発掘されたことなどから、この銅銭が『日本書紀』天武天皇十二年(六八三)四月壬申(十五日)条に見える詔に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫(なか)れ」とある「銅銭」であることが発表された。この発見によって、「和同開珎(かいちん)(かいほう)」以前に銭貨が鋳造されていたことが判明した。そのさい、明治後期に下伊那郡高森町下市田地区の武陵地(ぶりょうち)一号墳の横穴式石室から表面に「富本」と刻まれた銅銭が一枚出土していたことが注目を集め、鑑定の結果、富本銭であることが確認され、畿内以外でははじめての発見であることが判明した。また、飯田市座光寺の民家にも富本銭一枚が保管されていたことが最近判明し、地元の高岡・新井原古墳群から出土したものではないかとみられている。前記のように天武十三年二月と同十四年十月には科野に官人が派遣されているので、富本銭はかれらがもたらしたのではないかとの説も出されている。
天武天皇の死後、皇后の持統天皇が即位し、律令国家完成の事業を継承した。とくに飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)の完成により、律令制度がほぼ整った。また律令国家にふさわしい条坊制をもったはじめての京(みやこ)である藤原京も完成し、大化改新の詔で出された方針は、持統朝でほぼ完成したといわれている。なかでも浄御原令が持統三年(六八九)六月に施行されると、人民を登録地に固定した状態で戸籍を造ることに着手し、持統四年(庚寅(かのえとら))九月には「戸令(こりょう)」にもとづいて戸籍を造ることが命じられている。この戸籍は庚寅年籍(こういんねんじゃく)とよばれ、同時に戸主を定め各戸の範囲を確定する作業(編戸)が実施され、五十戸一里制にもとづく村落の編成が全国規模でおこなわれた。ここに律令国家による個別人身支配が完成したといえよう。
ところで、科野との関係で持統朝において注目されることは、『日本書紀』持統五年(六九一)八月辛酉(かのととり)(二十三日)条に「使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波(すわ)・水内(みのち)等の神を祭らしむ」という記事があり、「須波」と「水内」の神を祭るため使者(勅使ヵ)が派遣されたことである。
「須波」の神は諏訪大社(『延喜式』にいう南方刀美(みなかたとみ)神社)にまつられる建御名方富命神(たけみなかたとみのみことかみ)で、「水内」の神は『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)所載の水内郡の健(たけ)御名方富命彦神別神(ひこかみわけのかみ)であるとされており、科野国諏方評と水内評に鎮座している建(健)御名方富命(彦)神が国家的な祭祀の対象となっている。同時に祭られた大和国の龍田の神(奈良県生駒郡三郷町)は風の神で知られ、天武五年から持統十一年まで、同じ大和にあり水の神とも河の神ともいわれる広瀬の神(同県北葛城郡河合町)とともに、ほぼ毎年四月と七月に祭られている。この両神への祭祀は、田植えを控えた四月と収穫を控えた七月に、強風が吹いたり旱魃(かんばつ)が起こらないように願う恒例の祭祀であると考えられている。持統五年にも例年どおり龍田・広瀬の両神への祭祀はおこなわれているが、この年は四月から六月にかけて長雨がつづくなど、とくに天候不順だったため、諏訪湖と千曲川という水に関連した須波と水内の神をまつり、農作物への被害を最小限に食い止めようと使者を派遣したものと思われる。とくに科野の二神が選ばれたのは、天武朝における科野への関心の高まりによると考えられている。