中央行政のしくみ

312 ~ 314

大化の改新ののち、国外では唐・新羅(しらぎ)との対外戦争(白村江(はくすきのえ)の戦い)、国内では皇位継承をめぐる内乱(壬申(じんしん)の乱)、という大きな戦いをはさみ、天智朝、天武・持統朝と紆余(うよ)曲折をへながら、中国(唐)の制度を模範にして天皇を中心とした国家統治のためのさまざまな機構・組織や制度が整えられてきた。それらは大宝(たいほう)元年(七〇一)に施行(しこう)された大宝令(たいほうりょう)と翌二年に施行された大宝律(りつ)、すなわち大宝律令によっていちおうの完成をみた。こんにちの行政法にあたる令、刑法にあたる律を国家の基本法として運営される国家を律令国家(律令制国家)とよんでいるが、大宝律令の制定をもって律令国家が成立したとするのが、一般的な理解である。なお、養老年間、藤原不比等(ふひと)らによって、養老律令が編さんされるが、その施行は不比等の孫の藤原仲麻呂(なかまろ)が不比等の名を後世に伝えるために天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(七五七)になってなされたもので、全体としてみれば、その内容は大宝律令とほぼ同じものであると考えられている。

 大宝官員令(かんいんりょう)(養老職員令(しきいんりょう))の定めるところによると、律令国家の中央行政機構(官制)には、神祇官(じんぎかん)と太政官(だじょうかん)の二官があり、太政官の下に、中務(なかつかさ)省・式部省・治部省・民部省・兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵省・宮内(くない)省の八省(はっしょう)がおかれた。各省には、下部の実務機構として、職(しき)・寮(りょう)・司(し)とよばれる役所(小官庁)が付属していた。このほか、太政官から独立した役所として弾正台(だんじょうだい)、衛門府(えもんふ)・左右衛士府(えじふ)・左右兵衛府(ひょうえふ)の五衛府(ごえふ)、左右馬寮(めりょう)、左右内兵庫(ないひょうご)などが設けられた。五衛府以下の役所に勤務する官人は、一般の官人が文官とよばれるのにたいして、武官とよばれた。さらに特殊な役所として、女官(にょかん)(女性の役人)が所属する後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)や皇太子の家政機関である春宮坊(とうぐうぼう)があった。以上の各役所には、それぞれ四等官(しとうかん)(長官(かみ)(ちょうかん)・次官(すけ)(じかん)・判官(じょう)(はんがん)・主典(さかん)(すてん))とよばれる幹部役人と、雑任(ぞうにん)(史生(ししょう)・伴部(ばんぶ)・使部(しぶ)・舎人(とねり)など)とよばれる下級職員が所属し、徹底した文書(もんじょ)行政(公文書(こうもんじょ)制度)によって行政機構が運営されていた。

 このほか令外官(りょうげのかん)とよばれる令の規定以後に定められた官司(かんし)や臨時におかれた官司もいくつか設けられた。その一つに東大寺造営のためにおかれた造東大寺司(ぞうとうだいじし)があり、その下に写経所(写書所)とよばれる経典を書写するセクションもあった。そこには経師(きょうじ)とよばれる経文の書写・製作に従事する人びとが働いていた。正倉院文書中の天平二十年(七四八)四月二十五日付「写書所解(げ)」(写書所の上申文書)によれば、この日、信濃国更級郡村神(むらかみ)郷(坂城町)出身の私部乙万呂(きさいべのおとまろ)らが出家したい旨を申請しているが、乙万呂は三六歳で、写書所に勤務して一年になり、和銅五年(七一二)生まれであるという。このような小さな役所にも信濃国から出仕していた人がいたことが知られる。

 律令国家の官人(かんじん)(役人)は、官位令(かにりょう)によって正(しょう)一位から少初位下(しょうそいげ)まで三〇等級に分けられた位階(いかい)によって秩序づけられていて、三位以上が上級貴族、五位以上が中下級貴族であり、五位以上と六位以下の身分では待遇に大きな格差があった。五位以下にはさらに内位(ないい)と外位(げい)の区別があり、信濃国のような地方の出身者はまず外位を授けられた。そして官人はその位階に応じて就くことのできる官職(かんしょく)が定められ、これを官位相当制といった。

 官人にたいする給与は位階と官職に応じて支給された。まず位階に応じてあたえられたものとして、三位以上には位封(いふ)(支給された封戸(ふこ)からの田租(でんそ)の半分〔天平十一年からは全部〕と調・庸の全部)、四位(しい)・五位には位禄(いろく)(絁(あしぎぬ)・綿・糸・布など)、五位以上には位田(いでん)、在京の現職の官人には二月上旬と八月上旬に季禄(絁・綿・布・鍬(くわ))があった。いっぽう、官職に応じてあたえられたものとしては、大臣・大納言(だいなごん)・参議(さんぎ)などに職分田(しきぶんでん)(職田(しきでん))が、大納言以上に職封(しきふう)と資人(しじん)が、支給された。官位相当にない雑任以下には大粮(たいろう)とよばれる米・塩など食料や布が支給された。