律令国家は、全国を五畿(ごき)・七道(しちどう)という行政区画に分かち、国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(のち郷(ごう)とあらためる)からなる地方行政組織を編成した。五畿は畿内(きない)ともよばれ、京周辺の大和(やまと)・山背(やましろ)(のち山城)・河内(かわち)・和泉(いずみ)・摂津(せっつ)の五ヵ国が所属した。七道とは京と各国の国府(国を統治する役所、国衙(こくが)ともいう)を結ぶ駅路(後述)にしたがって定められた地方区分で、東海・東山(とうさん)・北陸・山陰・山陽・南海・西海(さいかい)の各道(どう)からなり、中央政府からの使者派遣や文書による命令下達(かたつ)などの単位として利用された。五畿以外(畿外(きがい))の諸国はいずれかの道に所属し、信濃国は近江(おうみ)・美濃(みの)・飛騨(ひだ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・下野(しもつけ)・陸奥(むつ)・出羽(でわ)の各国とともに東山道に属した(ただし武蔵国は宝亀二年〔七七一〕に東海道に編入される)。各国は耕地面積や人口に応じて、大・上・中・下の等級が定められていたが、一〇世紀はじめに編さんされた『延喜式(えんぎしき)』によれば、信濃国は上国であった。国は分割されたり、統廃合されることもあり、信濃では、一〇年間ほど諏方国(すわのくに)が一時的に分立していた時代もあったが(後述)、現在の長野県域は、美濃国に属した木曽地方を除き、古代を通じて、信濃国という行政単位に位置づけられた。
各国には国司(こくし)とよばれる役人たちが京・畿内から派遣されて地方行政にあたり、国内の祭祀や行政・裁判・軍事などをつかさどった。国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官からなり、ほかに書記役の史生(ししょう)のほか、国医師・国博士(くにはかせ)などの下級職員や技能職員がいた。四等官の国司と史生は中央からの派遣官であったが、国医師・国博士より以下の職員は現地採用が原則であった。上国の信濃の場合、令が規定する国司の定員は、守(従五位下相当)・介(従六位上相当)・掾(従七位上相当)・目(従八位下相当)は各一人、史生か三人、国医師一人、国博士二人であったが、しだいに定員外の国司(員外国司)が任命されることもあった。任期は大宝令当初には六年であったが、慶雲(けいうん)三年(七〇六)には四年になり、その後、六年になることもあったが、平安時代には四年が通例となった。信濃国司の初見は和銅元年(七〇八)三月に小治田宅持(おはりだのやかもち)が守に任命された記事である。
国司の職掌(しょくしょう)(職務内容・権限)は「令」に規定されており、守と介の権限はつぎのように多岐にわたる。国内の民政(戸籍・計帳による人民の把握とその生活の維持、農業の指導、田地・宅地の把握、人民の身分区分の把握)、財政(租税の徴収や徭役(ようえき)〔雑徭(ぞうよう)や歳役など力役〕の徴発、調庸の運搬、租税を収納する倉庫その他の官庫の管理)、軍事・警察・裁判(国内の治安維持、裁判、兵士の徴発、軍団の人事、兵器や軍事施設の管理)、交通行政(駅や伝馬(てんま)の監督、関所通行証としての過所(かしょ)の発行)、宗教行政(神社や僧尼名簿の管理)、その他(学生(がくしょう)の推挙、道徳的にすぐれたものの表彰、牧・馬牛・遺失物の管理・調査)、などであった。介は守が不在のとき、守の職務を代行した。掾は国内の治安維持や文書の審査にあたり、目は文書の作成・点検および読み上げが主な職務であった。また、史生は公文書の書写や四等官の署名を取ってまわることなど、書記官として雑務をこなした。こうした文書行政に対応できる官人の養成機関として、中央におかれた大学にたいして、地方諸国には国学がおかれ、郡司(ぐんじ)の子弟などから選ばれた学生を国博士などが教えていた。国医師も国学に勤務し、医生を教授したり、医療にもあたったりした。
国司の収入はというと、国司には季禄が支給されないかわりに、史生以上に職分田(しきぶんでん)(職田)と職分田の耕作にあたった事力(じりき)が支給された。大宝令では公廨田(くがいでん)とよばれていた職分田は、国家に田租(でんそ)(後述)を納めることを免除された田で、国の等級や官職によって、支給された面積に差異があった。信濃国の場合、守には二町二段、介には二町、掾には一町六段、目には一町二段、史生には一町が支給された。このほか、各国の正倉(しょうそう)に蓄えられた田租の一部を出挙(すいこ)(強制貸付)によって運営して官物(かんもつ)の欠損分の補填(ほてん)と国司の俸給にあてる公廨稲(くがいとう)があった。
国の下には郡という行政単位がおかれ、郡司(ぐんじ)とよばれる役人たちが郡役所(郡家(ぐうけ)・郡衙(ぐんが))で行政にあたった。郡司は大領(たいりょう)(長官)・少領(しょうりょう)(次官)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官のほか、正式の官人ではないが四等官のもとで働く雑任(ぞうにん)(郡雑任)とよばれる下級職員も存在した。国司が中央から派遣されるのにたいして、郡司には現地在住のものが採用された。官人に位階や官職を授けるさいの規定を定めた養老選叙令(せんじょりょう)(大宝選任令)には、「大領・少領には職務を的確に処理できる人を、主政・主帳には身体が強靭(きょうじん)で、頭脳は聡敏(そうびん)、書と計算にすぐれた人を任用しなさい」と定めている。このうち「大領・少領」(郡領)に関しては、個人の才能が同じ場合は「国造」を採用しなさいとも規定されていた。じっさいの例でも、とくに郡領には、当初は譜代とよばれる現地において伝統的支配力をもつ地方豪族出身者で、かつての国造一族が任命されることが多く、その子弟は兵衛(ひょうえ)として、姉妹または娘は采女(うねめ)として、中央政府に出仕した。また、その任期は終身であった。
郡領の任務は郡内の行政・警察・裁判であり、主政・主帳はそれを補佐した。なお、大宝令の注釈書で天平十年(七三八)ころ成立した「古記(こき)」によれば、「須芳(すわ)(諏方)郡」主帳が諏方郡と小県郡を結ぶ伝馬の道との説がある「須芳の山嶺道(やまのみねのみち)」を造っていることから(『令集解(りょうのしゅうげ)』考課令殊功異行(こうかりょうしゅこういぎょう)条)、道路の開削などもおこなっていたことが知られる。古代信濃国の郡司として現在確実に名前が判明するものは、筑摩(つかま)郡大領他田舎人国麻呂(おさだのとねりくにまろ)(「正倉院調庸麻布銘」天平勝宝四年〔七五二〕)、伊那郡大領金刺舎人八麻呂(かなさしのとねりはちまろ)(『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』神護景雲二年〔七六八〕)、埴科郡大領金刺舎人正長・小県郡権(ごんの)少領他田舎人藤雄(『日本三代実録』貞観四年〔八六二〕)、安曇郡主帳安曇部百嶋(あずみべのももしま)(「正倉院調庸布袴(ぬのばかま)銘」天平宝字八年〔七六四〕)、のわずか五人にすぎない。
郡司の収入としては、郡司職分田(職田)が支給された。田令(でんりょう)の規定によれば、大領には六町、少領には四町、主政・主帳には各二町が支給された。郡司職分田は田租を国衙(こくが)に納める輸租田(ゆそでん)であったが、国司に比べ郡司にたいする職分田の支給額がかなり多かった。
大宝戸令(こりょう)では、郡の下には最末端の行政単位として里(り)がおかれた。里は自然発生的な村落ではなく、戸籍に登録された戸五〇戸をもって一里とすることが定められていた(五〇戸一里制)。戸は戸籍や徴税の単位であり、里には里内の一般民衆(白丁(はくてい))のなかから選ばれた里長が一人おかれ、郡司の監督のもとに治安維持や徴税にあたった。大宝令によって定められた里は、最近の研究によれば、霊亀(れいき)三年(養老元年、七一七)ころに郷(ごう)と改称され、郷の下に新たに二~三の里という単位が組織された。これを郷里制(ごうりせい)といい、郷には郷長が、里には里正(りせい)がおかれた。また戸内の自立的な小家族(一〇人程度)を房戸(ぼうこ)として納税の単位とし、従来の戸を郷戸(ごうこ)として、村落の実態に近づけようとしたと考えられている。しかし郷里制はわずか二〇年余りで廃止され、天平十二年ころには里が廃止され、五〇戸からなる郷が最末端の行政単位となった(郷制)。
屋代遺跡群(更埴市)から出土した木簡(もっかん)には、埴科郡司から管内の「余戸(あまるべ)里長」にあてた郡符(ぐんぷ)木簡(一六号木簡)があり、また埴科郡司から管内の「屋代郷長・里正等」にあてだ郡符木簡(一一四号木簡)がある。「里長」「郷長」「里正」が見え、律令国家の地方行政の末端組織として機能していたことが知られる。このうち「里長」は大宝元年から霊亀三年ころまでおかれた国郡里制下の「里長」を、「郷長」と「里正」は霊亀三年ころから天平十二年ころのあいだに施行された郷里制下の「郷長」「里正」を、それぞれ示している。こうした表記は年紀のない木簡の年代を推定するうえで参考になるうえ、長野県下でははじめて郡司より下の「里長」・「郷長」・「里正」の実態の一端や郡司との関係が具体的に明らかになった点で重要であるが、それらについては「公式令符式と国符・郡符」の項で述べる。
なお、こうした地方行政を監察するため、律令政府は巡察使・按察使(あぜち)・問民苦使(もみくし)・観察使・鎮撫使(ちんぶし)・節度使・検税使(けんぜいし)などの使いを東山道などの道(どう)ごと、または近接する数ヵ国単位で任命した。信濃国にもこうした使者がしばしば派遣されている。