信濃国内の行政組織とその変遷

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信濃国内の行政は国府(こくふ)でおこなわれた。国府にはすでに「地方行政のしくみ」で述べたように、守(かみ)以下の四等官のほか、下級職員や技能職員がいて、さまざまな国内行政をおこなっていた。国府は地方支配の拠点として各国にひとつ配置された役所で、国司らの執務施設のある空間が国衙とよばれていた。これまでの発掘例や文献史料によれば、その中央に正庁(国庁院)があり、正庁は正殿と南庭を中心に東西に脇殿をおき、周辺に塀をめぐらしていた。

 現在、信濃国府跡は所在不明であるが、一〇世紀前半に編さんされた『和名抄(わみょうしょう)』においては、国府が筑摩郡にあったと記されている。しかし、聖武天皇の詔(みことのり)(天平十三年、七一四)によって建立(こんりゅう)が命じられ、全国的に国府に近接してつくられている国分寺跡や国分尼寺(こくぶにじ)跡が小県郡に存在することから、従来、大宝律令制定当時から小県郡にあった国府が八世紀末には筑摩郡に移転したと考えられてきた。明確に国府の移転を示す記事はないものの、『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』所収の延暦十六年(七九七)の太政官符(だじょうかんぷ)(太政官の命令)に、信濃国の牧に関連する政務の責任者である「監牧(けんもく)」の「公廨田(くがいでん)」(職分田)六町が筑摩郡埴原牧(はいばらのまき)(松本市中山)に設定されていること、『類聚国史』延暦十四年四月一日条に見える、信濃介(すけ)(次官)の石川清主が何者かに射かけられ小県郡の人である久米舎人望足(くめのとねりもちたり)が犯人として流罪(るざい)になった事件は、国府の小県郡から筑摩郡への移転に反対する不満が原因であると解釈すること、などから八世紀末に国府の移転がおこなわれたと考えられてきた。

 また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』養老五年(七二一)六月辛丑(かのとうし)(二十六日)条に「信濃国を割(さ)きて始めて諏方(すわ)国を置く」とあり、『同』天平三年(七三一)三月乙卯(きのとう)(七日)条に「諏方国を廃して信濃国に并(あわ)す」とあるので、養老五年から天平三年までの約一〇年間、信濃国が分割され諏方国が存在した。当然、諏方国の国府も設けられたと思われる。諏方国に属した郡名は正確なところは不明だが、諏方という国名から諏方郡と同郡以南の伊那郡は当然諏方国にふくまれ、地形的なつながりからいって筑摩郡さらに安曇郡もふくまれていた可能性がある。伊那・諏方・筑摩・安曇の四郡が諏方国に属し、残り佐久・小県・埴科・更科(さらしな)・水内・高井の六郡が信濃国に属したとすると、諏方国は現在の南信と中信(木曽地方を除く)、分割後の信濃国は現在の東信と北信地域となる。高速道路網や新幹線によって県内の交通形態が大きな変化をとげたつい最近まで、長野県は南と北でかなり性格が異なっており、明治以降、分県論が起こったこともあったが、古代においては一時期ながら南北に別々の国に分かれていた時期があった。諏方国の設置および廃止については明確な理由は判明していないが、国府の移転にはこうした「南北問題」もからんでいたらしい。

 さらに、最近発見された屋代遺跡群出土木簡や長屋王家跡(奈良市)出土木簡により、大宝律令以前、科野(しなの)国の中心が更級・埴科両地域(「科野評」と想定される地域)である可能性が高まってきた。諏方国の国府は諏方郡に想定されるように、科野(信濃)国の国府(国宰(こくさい)の駐在地)は「科野評」ではないかという見解もある。

 このような考えをもとに諏方国の設置と廃止の問題を考慮に入れると、信濃国の国府所在地についてはつぎのような可能性も考えられうる。七世紀後半、令制国が制定された当時、科野国の中心地「科野評」におかれた国宰(国司)の駐在地から発展した科野(信濃)国府は、大宝律令制定後は「科野評」が分割して成立した埴科郡内におかれていたが、信濃国を分割していったん成立した諏方国が廃止されるさいに、国内行政の効率や地域的なバランス・地域感情と対蝦夷(えみし)問題などを考慮に入れ、ともに在地豪族の勢力が強い埴科郡および諏方郡の国府を統合移転して、煩雑になってきた国衙行政を効率よくおこなうため小県郡に新たに国府をつくった。しかし、対蝦夷問題が一段落した八世紀末、国内の中心に位置する筑摩郡に再移転したのではないか、という可能性である。現在のところ、小県郡や筑摩郡に存在したとされる国府跡は発見されておらず、さらに諏方国の国府跡もまったく不明である。右の仮説が正しいか否かは、今後の発掘調査や研究の成果にゆだねなければならない。

 郡司が行政をつかさどった場所は郡家(ぐうけ)(郡衙(ぐんが))とよばれている。その遺跡についてはほとんど不明であるが、伊那郡の郡家については飯田市座光寺の恒川(ごんが)遺跡が有力な推定地とされており、その可能性はかなり高いといえよう(第二節二参照)。いっぽう、北信四郡の郡家では、水内郡家について現在の県庁付近の県町(あがたまち)遺跡が推定地とされている。埴科郡家には屋代遺跡群を考える説が出されている。また、更級郡家は現在の更埴市八幡(やわた)大字郡(こおり)をその比定地とする。しかし、北信四郡で確実な郡家の遺跡は現在のところ発見されていない。