屋代遺跡群出土木簡のなかには国符・郡符が発見されている。まず国符は一五号木簡(口絵参照)がそれである。表に「符 更科郡司等 可□(致)[ ]」とあり、裏には、表とは天地逆に別筆で「酒人マ(部)弓」「物マ(部)大□万呂」「酒人マ(部)」「宍人マ(部)」などの人名が記されている。この木簡は出土した土層から八世紀初期のものと考えられ、表の冒頭の文言(もんごん)から、信濃国司が「更科郡司」らにあてた命令書(国符)であることがわかる。従来、国符は紙に書かれた文書しか知られていなかったが、大宝令施行後ほどない時期に、地方行政においては木簡の国符が機能していたことが全国ではじめて知られるようになった。
この国符で注目されることは、「更科郡司等」にあてて発給された文書が、当時埴科郡に属していたと思われる屋代遺跡群から発見されたことのもつ意味である。この問題に関しては、信濃国司から発行された国符がまず更級郡家にもたらされてから、水内郡家・高井郡家・埴科郡家と逓送(ていそう)(順送り)され、最終的に埴科郡家で廃棄されたという解釈が提出されている。こうした理解は、「伊勢国計会帳(けいかいちょう)」に見える伊勢国府から各郡家への文書伝達の仕方などをもとにして、当時、更級・水内・高井・埴科の北信四郡がひとつの行政ブロックを形成していたのではないかとする魅力的な仮説にもとづいている。この仮説は、古代の善光寺平の地域的なつながりを考えるうえで注目すべきものだが、仮説が証明されるには、当時の国府および埴科郡家の所在地、屋代遺跡群の性格など、解明されなければならない問題点も少なくない。
郡符は一六号木簡と一一四号木簡に見られる。まず、一六号木簡は木簡の表に「符 余戸(あまるべ)里長」とあり、郡司から管内の「余戸里長」あてに発給された命令書(郡符)であることが知られる。余戸とは郡内で五〇戸からなる里を編成したさいに生じた「あまりの戸」であり、大宝令制下では余りが二五戸以上あった場合は別の里をおき、里長に監督させた。一〇世紀に成立した『和名抄』によれば、信濃国で「余戸里」がある郡は小県郡しかないが、屋代遺跡群が存在するのは埴科郡内であることから、埴科郡司が下した命令(郡符)であると考えられている。出土した土層(八世紀初頭と推定)や国郡里制下の木簡であることから、大宝元年(七〇一)から霊亀三年(養老元年、七一七)の郡符であることが判明するが、その他の文字がほとんど判読できず命令の内容は不明である。
これに比べると、一一四号木簡は内容がかなり豊富で、左のようである。
(表)「 敷席二枚 鱒□升 芹□
符 屋代郷長里正等 匠丁粮代布五段勘(堪ヵ)夫一人馬十二疋
□(神)宮室造人夫又殿造人十人 」
(裏)「□物令火急召□□(出)者宜行 少領[ ] 」
この木簡は埴科郡司(裏面から少領が命令したかと思われる)が郡内の屋代郷の郷長や里正に発給した命令書(郡符)であり、「郷長」や「里正」の表記から郷里制下、霊亀三年ころから天平十二年(七四〇)ころのあいだの木簡であるとされる。その内容は、埴科郡司が屋代郷の郷長や里正にたいして、郡家におけるなんらかの行事(神事か)のために使用する敷席(しきむしろ)・鱒(ます)・芹(せり)などの物品、神事をおこなう「神宮室」や「殿」を造る人夫、人夫を指揮して造営をおこなう技術者(「匠丁」)への手当である麻布五段、荷物を運ぶ人夫(担夫)一人と馬一二疋、を進上することを命じたものである。命令をうけた屋代郷長は、郷内の里正に郡符木簡を回覧しながら物品や人夫を調達し、埴科郡家または関連施設に郡符木簡とともにもたらし、点検をうけたのち、木簡は廃棄されたと想定されている。
なお、屋代郷の「屋代」は「社(やしろ)」の意味であるとされ、その社は「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」にいう祝(ほうり)神社で、更埴市雨宮に鎮座する雨宮坐日吉(あめのみやにいますひよし)神社であろうとされているが、あるいは郡家での神事と考えるより、祝神社での神事や造営にかかわる木簡である可能性もなくはない。
この木簡は下端が折られて紛失しているが、残存した部分だけでも三九センチメートルある。他の例などから、郡符木簡は二尺(約六〇センチメートル)におよぶような長大な木簡が用いられていたことが指摘されている。従来、郡司の活動は分かっても、里長や郷長・里正などの在地における具体的な活動は不明であったが、律令の規定に見えない人民の負担、物品や力役の調達などが判明し、屋代遺跡群出土の郡符木簡は善光寺平の古代史のみならず、古代地域史研究全般に格好の史料を提供してくれた重要な発見である。