地方行政と論語木簡・九九木簡

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律令制にもとづく公文書による地方行政の遂行のため、郡司は漢文で書かれた文書や法令を読み、かつ文字(漢文)を書けなければならなかったし、さらに律令官僚機構の末端であるという自覚をもつ必要上、儒教の素養も不可欠であった。それには読み書きはもちろん、『論語』など中国の古典に関する簡単な知識は身につけていなければならなかった。こうした地方行政機関の官人による漢文修得の実態を示す例として、秋田城(秋田市)から『文選(もんぜん)』を習書した木簡が出土しており、大宰府(だざいふ)でも習書木簡により『魏徴時務索(ぎちょうじむさく)』が模範文例集として用いられていた可能性が指摘されている。また『論語』など儒教の学習も盛んであったことを示す例として、徳島県徳島市国府町の観音寺遺跡から「学而(がくじ)篇」冒頭の「子曰(いわく)、学而(て)習時」を書いた七世紀中葉とされる木簡が出土している。

 屋代遺跡群からも『論語』の文言を書写した「論語木簡」が発見されている。それは『長野県屋代遺跡群出土木簡』刊行(平成九年、一九九七)以後の保存処理後の再調査により、確認されたもので、三五号木簡と四五号木簡の二点である。発表によれば、まず、三五号木簡は『論語』為政篇の「子曰、学而不思(是)則罔、思而不学則殆」(子曰(いわ)く、学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し)のうち、傍線部分が書写されたものである。つぎに四五号木簡は『論語』学而篇一 何晏(かあん)集解「子曰、学而時習之、不亦悦乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」(子曰く、学びて時に之(これ)を習う、亦(ま)た悦(よろこ)ばしからず乎(や)、朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎、人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎)のうち、傍線部分が書写されたものであるという。


写真4 屋代遺跡群出土35号(左)、45号(右)木簡
長野県埋蔵文化財センター提供

 また、郡司の職務のところで述べたが、養老選叙令(大宝選任令)には「主政・主帳には身体が強靭(きょうじん)で、頭脳は聡敏(そうびん)、書と計算に優れた人を任用しなさい」と定めており、地方官人は、租庸調の徴収や公出挙(くすいこ)の管理のために九九など計算ができなければならなかった。こうしたことを示す木簡として、平城宮などから九九を記した「九九木簡」が出土しているが、屋代遺跡群からも習書風のものもふくめると、八一号・一一五号・一一六号・一一七号の四点の九九木簡が出土している。もっとも詳しい八一号木簡を示すと、左のようである。

 (表)「九々□□(八十)一 □□(八九)七十□(二)  □□(七九)六十三 六九五

                          □□(九九)

     □(五)九卌   四九卌 三九廿七 二九十八   」

 (裏)「□(八ヵ)九如□ 八々□(六)十四 七□(八)

     五八卌 □□ 三八□(廿)  二八十六      」

表には九九の九段が九九八十一から始まって二九十八まで記され、裏には同様に九九の八の段が記されている。これまで発掘されている古代の九九木簡は、現在の九九のように一の段から始まらず、九の段それも九九八十一から始まっている点に特徴があり、屋代木簡も同様である。こうした九九木簡が地方で発見されたものは現段階では少なく、貴重な例である。このように、屋代木簡によって地方行政の実態が明らかになりつつある。


写真5 屋代遺跡群出土81号木簡
長野県埋蔵文化財センター提供