中央の軍制

326 ~ 328

律令国家の軍事制度は、中央におかれたいわゆる五衛府(えふ)と、地方諸国に配置された軍団から成っている。中央の軍制としては、衛門府(えもんふ)と左右衛士府(えじふ)、左右兵衛府(ひょうえふ)がある。衛門府には門部(かどべ)、物部(もののべ)のほか、地方の軍団の兵士から指名され上京した衛士(えじ)が配属され、宮城門と宮門の守衛にあたった。左右衛士府には衛士が配属され、宮城内の庁舎の守衛や行幸の供奉(ぐぶ)(随行)などを任務とした。左右兵衛府には六~八位の官人および郡司の子弟らから採用された兵衛(ひょうえ)が配属されていて、天皇の身辺を警護し、行幸にも供奉した。これら衛府を統率する長官(督)はいずれも中央の貴族がつとめた。なお、仲麻呂の乱の鎮圧に活躍したとして天平神護元年(七六五)正月に外従五位以下と勲六等を授けられ、のちに伊那郡大領となった金刺舎人八麻呂は郡司の子弟であったため兵衛として平城京に出仕していたのではないかと推定されている(第二節二「北信濃の牧」参照)。