地方の軍制

328 ~ 329

地方諸国におかれた軍団は国司の指揮下におかれていた。軍団は国ごとに一団から数団がおかれ、各軍団には大毅(だいき)・少毅(しょうき)・校尉(こうい)・旅帥(りょすい)(ろそち)・隊正(たいしょう)ら指揮官のもとに一般農民から徴発された兵士が配属された。通常は、一団につき兵士一〇〇〇人がおかれたが、職員令(しきいんりょう)や軍防(ぐんぼう)令によれば、隊正二〇人は各五〇人の兵士を、旅帥一〇人は各一〇〇人(二隊)の兵士を、校尉五人は各二〇〇人(二旅)の兵士を、大毅一人と少毅二人は一団(兵士一〇〇〇人)を統括した。このほか、軍団の庶務会計をおこなう事務官として主帳(しゅちょう)一人が所属していた。

 軍団の職員は現地採用が原則で、とくに大毅と少毅は郡領と同じく在地の有力豪族、大化前代(たいかぜんだい)の国造層(くにのみやつこ)が任命されていた。兵士は成年男子(正丁)三人に一人の割合で徴発され、本貫地(戸籍に登録されている地)に近い軍団に配属された。兵士は、平時には国司の監督下で年間数十日の国内上番(勤務)の任務につき、非番のさいは農業に従事していた。そして、反乱鎮圧や征討など有事のさいは、富裕な家の出身者から順番に派遣するように律令には定められていたが、延暦(えんりゃく)十一年(七九二)、陸奥・出羽・西海道諸国など辺境の要地を除いて廃止された。兵士は庸(よう)と雑徭(ぞうよう)を免除されたが、各種の武器や食糧は自弁とされ、その負担は重かった。

 屋代遺跡群出土木簡の報告書によれば、「信濃團(団)」(六〇号木簡)、や「少毅」(一二号木簡)が見え、これらは当地における「信濃団」という軍団の存在と関係するものとされてきた。しかし、報告書で「團」と読まれていた六〇号木簡は再調査により、じつは「國」と読むべきであることが調査関係者より示されていることから、「信濃団」をもとに展開されてきたもろもろの議論は再検討しなければならなくなった。


写真6 屋代遺跡群出土12号木簡
長野県埋蔵文化財センター提供