また、兵士のうち一部は衛士(えじ)や防人(さきもり)に指名されて、故郷を離れ、平城京や北九州などでの任務に就いた。中央の衛門府や左右衛士府に配属された衛士は、こうした国内の兵士から選抜されたもので、律令では、任期が一年と定められていたが、じっさいにはかなり長期にわたって京に留めおかれる場合が多かった。養老六年(七二二)二月には、壮年に都に赴きながら、白髪になってようやく故郷に帰るという悲惨な状況をあらためるために、衛士の任期を三年に限定する命令が出された。しかし、その後も状況は改善されずに衛士の逃亡が絶えず、衛府の制度はしだいに弱体化していった。
信濃国から京に出仕した衛士としては、平城宮の東南の二条大路と東一坊大路の交差点付近の溝から、表に 「□(高)井郡穂科郷衛士神人(みわひと)」、裏に「□養 □(布ヵ)六□(段ヵ) 宝亀五年」と記された木簡が出土している。信濃国高井郡保科郷(若穂保科)出身で衛門府または衛士府に勤務する衛士の神人某が存在したことが知られ、宝亀五年(七七四)、神人某のもとに、この年の資養物(しようもつ)(養物・国養物)として布が六段(たん)(端)送られたことが判明する。
また関連して、平城宮若犬養門(わかいぬかいもん)付近の二条大路北側溝からは、表に「信濃国筑摩(つかま)郡山家(やまんべ)郷火頭椋椅部(かとうくらはしべ)」、裏に「逆(さかう)養銭六百文」と記された木簡が出土している。これは衛士の火頭(炊事係)として平城宮に上番した信濃国筑摩郡山家郷(松本市)出身の椋椅部逆の「養銭」(生活費)六〇〇文に関する付札であると考えられている。この養銭六〇〇文というのは当時の相場とされ、一年に一回支給されたらしい。
このほか、平城宮壬生門(みぶのもん)付近の二条大路北側溝から出土した木簡には、表に「□□(置始ヵ) 馬依[年十九 鼻右/黒子(ほくろ)]」、裏に「□□信濃国□」と記された木簡が出土している。この木簡には置始馬依(おきそめのまより)らしき人物名の下に、年齢が一九歳で、鼻の右に黒子があることが記されている。人名のほかに年齢や顔面など身体的特徴を記した同様の木簡が椋椅部逆の「養銭木簡」とともに出土した木簡にもあることから、置始馬依は信濃国出身者の衛士または火頭であり、かれにたいして信濃国から送られてきたと思われる養物を支給するさいに本人であるかどうかを確認するための記載ではないかと推定されている。
このほか、従来指摘されていない例として、天平勝宝二年(七五〇)五月二十六日付「造東大寺司移(ぞうとうだいじしい)」(「正倉院文書」続修別集一、『大日本古文書』編年文書三巻四〇三~四〇四頁)があげられる。この日、造東大寺司が兵部省(ひょうぶしょう)に送った「移」(上下支配関係のない役所間で取りかわされた公文書)にはつぎのような内容が記されている。「衛士に与える位記(いき)(授けられた位階を本人に示す文書)二九三紙のうち、本人が給わった位記が一五一紙で、交替で帰郷したため本人に授けられなかった位記が一四二紙であるが、そのうち左衛士のものが四九紙、右衛士のものが五〇紙、衛門士のものが四三紙である。したがって本人に支給していない位記は朝集使に付託して各国にもたらし本人に授けてほしい」。このうち衛門士に授与する四三紙の位記の中に「一紙信濃国」とあるので、信濃国から衛門府に衛士として上番し、この年五月にはすでに任を終え帰郷した人物が一人いたことが知られる。
防人も、衛士と同様に兵士のなかから選抜され、対外防備のために、任期三年で北九州沿岸地域に配備された。律令では防人を出す地域をとくに定めてはいないが、じっさいには東国出身者が多かった。防人の任務も衛士と同様に令の規定が守られず、長期にわたることが多く、『万葉集』には防人に指名された兵士が家族との別れを惜しむ歌が収録されている。農民に重い負担を強いる律令国家の軍事制度は、農民の逃亡とともに破綻をきたし、八世紀後半には弱体化していった。天平勝宝七歳(七五五)二月、交替で筑紫に派遣される諸国の防人は、各国の「防人部領使(ことりづかい)」に引率され難波津(なにわのつ)(大阪市)に集合した。難波津から筑紫まで瀬戸内海を船で運ぶことを担当していた兵部少輔(ひょうぶしょうふ)大伴家持は歌をたてまつるように命じ、家持は拙劣な歌を除き書いてとどめ、『万葉集』巻二〇-四三二一~四四三六に関連の歌が収録されている。採録された国は遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・相模(さがみ)・武蔵(むさし)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・信濃・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の一〇ヵ国である。二月二十二日、信濃国防人部領使自身は途中で病気になって来られなかったが、一二首の歌をたてまつった。拙劣な歌は除き、「国造(こくぞう)」で小県郡の他田舎人大嶋(おさだのとねりおおしま)、「主帳」で埴科郡の神人部子忍男(みわひとべのこおしお)、おそらくは埴科郡の人と思われる小長谷部笠麻呂(おはつせべのかさまろ)、の三首が『万葉集』に残されている。
信濃国の場合は三人しか防人の階級(肩書)が分からないが、ほかの国々の防人歌も参考にすると、国造丁(国造)-助丁-主帳丁(帳丁・主帳)-火帳-上丁(防人)という階級のもとに防人軍が組織されていた。これは軍団の官制と似ており、国造丁(国造)〔定員一人〕と助丁〔定員一~二人〕が大毅と少毅に対応し、主帳丁(帳丁・主帳)〔定員一~二人〕は軍団の事務官である主帳に対応した。これにたいして一般兵士にあたるのが火帳と上丁(防人)であり、上丁(防人)一〇人に火長一人が任命された。こうした防人軍の編成には大化前代の国造軍(国造が率いる軍隊)の構造が継承されていたと考えられている。したがって信濃国の場合、小県郡の他田舎人大嶋は、かつて科野国造をつとめた一族の末裔(まつえい)であると推定されている。