戸籍・計帳と班田収授制

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戸籍と計帳は、律令国家が民衆の支配をおこなうため作成した文書(帳簿)である。戸籍は古くは「へのふみた」とよばれ、その源流は古代中国にあり、渡来人によってもたらされ、まずヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)などで導入されたといわれている。『日本書紀』欽明(きんめい)三十年正月辛卯朔(かのとうさく)(一日)条・四月条によって、吉備(きび)国白猪(しらい)屯倉の田部(たべ)の「丁(よほろ)の籍」が作られ、賦課対象となった男子の戸籍が作成されていたことが推定されている。先に述べたように善光寺平にも屯倉が設定されていた可能性があるので、科野においても六世紀ごろ、おそらくは木の札に書かれた戸籍が屯倉において用いられていたかもしれない。

 大化二年(六四六)正月の「大化改新詔」によれば、戸籍を作成する方針がこのときに示されたとされるが、じっさい全国的に戸籍が作成されたのは天智九年(六七〇)の庚午年籍(こうごねんじゃく)がはじめてであった。庚午年籍は残っていないため記載内容は不明だが、地域というよりは、氏(ウジ)や部民といった族制的な原理を強く反映して記載されていたらしい。その後、律令制以前の身分や改氏姓以前の氏族名を記してあることから、氏姓・身分の根本台帳として重視され、大宝令や養老令の規定では永久保存とされた(それ以外の戸籍は五比(ごひ)すなわち三〇年のあいだ保管)。ついで作成されたのが、浄御原令(きよみはらりょう)の戸籍法によった持統四年(六九〇)の庚寅(こういん)年籍である。庚寅年籍は浄御原令の戸令(こりょう)によって作成された戸籍で、人民を居住地によって把握する地域による編戸作業と一体になった造籍の結果できあがったものである。当時、全国的におこなわれていた五〇戸一里制にもとづく最初の戸籍で、六年ごとの造籍の先駆けとなった。

 そして大宝令の戸令により律令国家の戸籍制度が確立した。戸令によれば、戸籍は班田収授、氏姓や身分確定の基本台帳であり、六年に一度作成された。こうして作成された戸籍のうち現存するものが、大宝二年(七〇二)の西海道(筑前・豊前(ぶぜん))と御野(みの)(美濃)の戸籍や、養老五年(七二一)の下総(しもうさ)の戸籍である。その記載内容は、戸ごとに戸口の姓名・続柄・年齢・性別などを記しており、作成された戸籍は民部省に各一巻送られるとともに、もう一巻は中務(なかつかさ)省をへて天皇の御覧にも供した。こうした手続きは戸籍が天皇による民衆支配を象徴するものに由来するからであると理解されている。

 いっぽう、計帳は、人ごとに課せられた調庸の負担者や人数を把握するために作成された文書(帳簿)で、調庸収取の基本台帳とされている。計帳の作成は毎年おこなわれ、六月末までに各戸主が戸口一人一人の姓名・年齢などを書き上げた申請書(手実(しゅじつ))を提出し、国衙ではそれらをもとに国郡単位に戸数・口数・調庸物数を集計した統計文書(目録・大帳)を作成し、八月末までに太政官に送ることになっていた。このほか、手実の内容に戸ごとの集計その他を書き加え、里を単位に巻物にした歴名(れきみょう)といわれる文書も作成された。中央ではこれらのデータによって調庸物の納入見込み量を事前に把握し、予算編成をおこなった。現在、神亀(じんき)三年(七二六)・天平五年(七三三)の「山背(やましろ)国愛宕(おたぎ)郡計帳」、天平五年の「右京計帳」、「越前国江沼(えぬま)郡山背郷計帳」など断簡もふくめ十余点の計帳が残存している。

 また、土地の国有を原則とする律令国家は、中国の均田制(きんでんせい)にならって班田収授の制を国家の土地にたいする基本政策(田制)とした。これは原則として六年ごとに作成される戸籍にもとづいて、身分や性別によって差が設けられていたが、ほぼすべての人民にたいして、国家が把握している公有の土地を口分田(くぶんでん)および園地・宅地として一定の面積を班給(はんきゅう)する(分かちあたえる)制度である。口分田は、いったん班給されると終身その使用権を認められるかわりに、毎年一定の田租(でんそ)を国衙(こくが)に納めることを義務づけられた。口分田の班給はほぼ六年ごとに全国いっせいにおこなわれ、売買や質入れは禁止されたが、耕地を貸し借りする賃祖(ちんそ)は許された。班給をうけたものが死亡すると、六年ごとにまわってくる最初の班年(はんねん)のさいに口分田を返還しなければならなかった。また、園地は年齢や性別に関係なく一定の面積を班給され、桑や漆(うるし)を栽培する土地とされていたが、野菜類も植えられていた。宅地は居住用の建物のある土地で、国や郡の許可を得れば売買が認められた私有権のもっとも強い土地であり、班給に関しては規定がなかった。