田租(租)

334 ~ 335

公地公民の原則をとる律令制のもとでは、すべての人民は口分田とよばれる田を国家から班給され、これを生活基盤とした。口分田は良民の場合、六歳以上の男子に二段(たん)(七二〇歩(ぶ)、約二一アール)、女子にはその三分の二の一段一二〇歩が支給された。この口分田には田租(でんそ)(租・たちから)とよばれる税がかけられ、一段につき二束(そく)二把(わ)の稲(穂首)を納めた。これは上田(じょうでん)(もっとも収穫高の多い田)の収穫の三パーセントに当たり、江戸時代の年言(五公五民とか四公六民といわれる)などに比べて低率であるといわれている。それは田租の起源が、伝統的に農業共同体でおこなわれていた神などに初穂を貢納(こうのう)する儀礼にあったためと考えられている。なお、慶雲(けいうん)三年(七〇六)には租の納入量は段別一束五把に改定されるが、これは束把の大きさが改定された結果にすぎず(これを成斤(せいきん)とよび、以前の大きさを不成斤という)、実質的な負担量に変化はなかった。

 田租は、一部が精米されて京に送られ、官人らの給食に使われたほかは、国司が管理する正倉(しょうそう)に収納され、原則として使用せず、もっぱら備蓄された。『続日本紀(しょくにほんぎ)』和銅七年(七一四)四月壬午(みずのえうま)(二十六日)条により、諸国に「租倉」があったことが知られる。天平(てんぴょう)期の諸国の正税帳(しょうぜいちょう)によれば、租の量が籾(もみ)(穀)の単位の石(こく)(斛)・斗(と)で記されていることから、倉には籾で納入していたらしい。田租は天皇の即位・行幸・改元および祥瑞(しょうずい)(めでたいしるし)出現、さらには飢饉(ききん)や災害などのときは免除された。信濃では『続日本紀』神護(じんご)景雲二年(七六八)五月辛未(かのとひつじ)(二十八日)条によれば、更級郡の建部大垣(たけるべのおおがき)は性格が恭順で親孝行であったため、また水内郡の刑部智麻呂(おさかべのともまろ)は友情厚く苦楽をともにしたため、同じく水内郡の倉橋部広人(くらはしべのひろひと)は「私稲(しとう)」六万束(そく)を出して「百姓(ひゃくせい)」の負債を償(つぐな)ったため、それぞれ中央政府から終身の田租を免除されている。

 これにたいして、一定の年齢の男子に課せられた庸と調は、すべて京に運ばれ、中央財源にあてられた。以下、庸・調および中男作物(ちゅうなんさくもつ)・贄(にえ)について述べることにする。