養老賦役令(ぶやくりょう)では正丁(せいてい)(二一~六〇歳の男子)が年間一〇日上京して政府に使役(しえき)される歳役(さいえき)のかわりに、布二丈六尺を負担する規定であった(大宝令の段階では歳役の規定はなく、全員が布二丈六尺を納める規定であった)。しかし、じっさいに大宝令以降は歳役が徴発されることはなく、すべて庸(よう)(ちかしろ)で徴発され、布(庸布)のほか、米(庸米)や塩(庸塩)や綿(庸綿)で納入されることもあった。なお、次丁(じてい)(六一~六五歳および軽度の障害をもつ男子)は正丁の半額(歳役五日分、布一丈三尺)を負担し、中男(ちゅうなん)(一七~二〇歳〔天平宝字元年以降、一八~二一歳〕の男子で、大宝令では少丁とよばれた)と京・畿内の男子は免除されたが、かわりに畿内の人びとは半ば強制的に課される雇役(こえき)とよばれる労働に徴発された。
庸の起源はヤマト王権のころ、朝廷の力役に徴発される舎人(とねり)や仕丁(しちょう)など役民の生活費(資養物(しようぶつ))を地元から仕送りした制度に由来するといわれている。大宝令のもとでは、国司・郡司が徴収して京に送り、すべて民部省に納入されたが、慶雲三年(七〇六)、米・塩は民部省(みんぶしょう)に、布・綿などの繊維製品は大蔵省に、それぞれ納入されることとなった。大蔵省に納められたものは、同省に納められた調の繊維製品とあわせて官人の季禄や位禄となった。民部省に納められたものは、雇役民(こえきみん)の功直(こうちょく)(労働の対価)・食料(じきりょう)や、諸国から集められた衛士(えじ)・仕丁・采女(うねめ)・女丁(じょてい)などの大粮(たいりょう)(食料)またはその財源となった。