調

336 ~ 339

調(ちょう)(みつき)は地方の首長が朝廷に服属の証(あかし)としてたてまつった貢納物を起源としており、贄(にえ)(後述)と並んで地方諸国が各地の特産品を中央政府に納めたものであった。調には正調と副調の二種類があり、律令に品目と数量が細かく規定されていた。正調は絹・絁(あしぎぬ)・糸(生糸)・綿(真綿)・布(麻布)といった繊維製品か、調の雑物(ぞうもつ)といわれる鉄・鍬(くわ)・塩もしくは種々の魚介類や海藻からなる食料品のなかからひとつの品目を負担するものである。次丁は正丁の半額、中男は正丁の四分の一の額を負担した。調は国衙(こくが)が徴収し、原則としてすべて京に送られ、大蔵省に納入された。繊維製品は大蔵省に留めおかれて貴族・官人などの給与(季禄・位禄)や朝廷・官司の経費となったが、食料品は大蔵省から宮内省に属する大膳職(だいぜんしき)に送られた。

 信濃国の調布(ちょうふ)に関しては、『続日本紀』養老元年(七一七)五月丁未(ひのとひつじ)(八日)条に「上総(かずき)・信濃の二国をして始めて絁(あしぎぬ)の調を貢ぜしむ」とあり、このときはじめて信濃国から絁が中央政府に納められた。また現在正倉院に残っている信濃国から上進された調布の現物としては、布桍(ぬのばかま)に天平宝字八年(七六四)十月付で「信濃国安曇郡前科(さきしな)郷戸主安曇部真羊 調布壱端(いったん)[長四丈二尺/広二尺四寸]」(信濃国の国印が四ヵ所におされている)という墨書(ぼくしょ)をもつものがある。また同じく正倉院所蔵の白布には天平勝宝四年(七五二)十月付で「信濃国筑摩郡山家(やまんべ)郷戸主物部(もののべ)東人 戸口小長谷部尼麻呂(おはつせべのあままろ) 調并(ならびに)庸壱端[長四丈二尺/広二尺四寸]」との墨書があり、調布と庸布を合成して一端にしたことがわかる。このほか、切断されていて年紀が不明であるが、「信濃国小県郡海野(うんの)郷戸主爪工部君(はたくみべのきみ)調」との墨書銘のある麻布(調布ヵ)があり、さらに天平十一年(七三九)十月の日付のある白布褥心(じょくしん)や天平宝字八年十月の日付のある布袴(ぬのばかま)二点に、「信濃国印」がそれぞれ一顆捺(かお)されており、これらは信濃国より貢納された調布または庸布、あるいは合成された調庸布であることが知られる。

 こうした信濃国産出の調布・調庸布は、官人の禄物(ろくもつ)や官司の経費として使用され、さらにそれが交易に用いられ京・畿内周辺で流通していたらしいことは、正倉院文書中の天平年間の某年正月十八日付「河村福物布進上状」(「正倉院文書」続々修四十四帙十裏、『大日本古文書』編年文書二四巻五六〇頁)、天平宝字六年三月二十一日付「石山院禄物班給注文」(「正倉院文書」続修四十四、『大日本古文書』編年文書五巻一四五~一四六頁)、同年五月十七日付「造石山院所公文(くもん)案」所収「造石山院所解」(「正倉院文書」正集六裏書、『大日本古文書』編年文書五巻二三三~二三四頁)、同年十二月と推定される「二部般若雑物納帳」の十二月三十日条の項(「正倉院文書」続修四十一、『大日本古文書』編年文書五巻三〇五頁)などによって知られる。平安時代になると役人の禄や法会(ほうえ)の料物(りょうもつ)としてひんぱんに用いられた「信濃布」の前史には、こうした八世紀中葉ごろにおける信濃の調布の広範な流通が存在したらしい。

 いっぽう、付加税である調副物(ちょうのそわつもの)は正丁のみが負担するもので、各種の染料や植物油・手工芸品などからなっていた。藤原宮跡出土の荷札木簡には、表に「高井郡大黄(だいおう)」、裏に「十五斤(きん)」と書かれたものがある。年紀はないものの、「高井郡」とあることから、大宝元年(七〇一)以降、和銅三年(七一〇)の平城遷都より前の木簡であることが知られるが、高井郡より納められた大黄一五斤は調副物か諸国貢献物ではないかと推定する説(『県史通史』①)もある。

 しかし、『延喜式』典薬寮(てんやくりょう)式に規定される「諸国進年料雑薬」によれば、信濃国には大黄三〇斤の貢進が課せられていることに加え、中央で必要とする薬物は典薬寮付属の薬園で栽培されるほかは、典薬寮が毎年必要量を推計し、太政官に申請して諸国から貢進させる規定が医疾令(いしつりょう)に規定されていたらしいので、この制度の起源は大宝令施行前後までさかのぼるという見解も発表されている。大黄は蓼(たで)科の多年草で、中国北部が原産地とされるが、地下茎は黄色で古来漢方薬の原料とされ、健胃剤・瀉下(しゃげ)剤として利用されており、現在でも信州大黄として知られている。なお、長屋王家木簡のなかにも「播信(はにしな)郡五十斤」と「讃信(さらしな)郡七十斤」を合わせて「百廿斤」と記した木簡があり、単位が同じ「斤」であること、木簡の形態が木簡の下端にのみ切れこみを入れる「高井郡大黄」木簡に似ていることから、埴科郡と更級郡から大黄がひとつに取りまとめられて京に貢進されたと考える説もある。


写真7 藤原宮跡出土「高井郡大黄」木簡 (橿原考古学研究所蔵)