右に述べた調副物と少丁(中男(ちゅうなん))の調は養老元年(七一七)十一月に廃止され、かわって「中男」の雑徭(ぞうよう)によって調達した郷土の産物を貢進させる、のちに「中男作物」とよばれる新たな制度が設けられた。これは中央で必要とする物品を地方諸国に割りあて、諸国は「中男」の雑徭を使って物品を採集もしくは製作させ貢納するものであった。
正倉院所蔵の布袋には、「信濃国水内郡中男作物芥子弐㪷(斗)(からしにと) 天平勝宝二年十月」という墨書銘をもつものがあり、左端に小さく「大田」と見える。このことから天平勝宝二年(七五〇)、水内郡の中男の労働力を投入して生産した芥子が京に貢進されたことが知られる。平城京出土木簡に見られる中男作物の木簡には、個人名ではなく郡名や郷名が記されていることから、水内郡内の大田郷から納められた中男作物の芥子であると推定されている。芥子に関しては、正倉院に「信濃国少(小)県郡 芥子壱㪷 天平十三年十月」という墨書銘があり、別筆で「勝宝五年六月四日 定六升六合」と記す布袋が伝えられている。天平十三年(七四一)に小県郡から京に貢納された芥子一斗(一〇升)は、天平勝宝五年(七五三)に量ったところ六升六合になっていた。つまり一一年半余りのあいだに三升四合使われたことが知られる。芥子は調味料や薬用に用いられるが、小県郡から貢納された芥子も水内郡大田郷からの芥子と同様に中男作物である可能性がある。
「延喜民部主計式」は、信濃国に課せられた中男作物として「紙・紅花(べにばな)・麻子(あさのみ)・芥子・猪膏(いのあぶら)・脯(ほしじ)・雉腊(きじのきたい)・鮭楚割(さけのすはやり)・氷頭(ひず)・背膓(せわた)・鮭子(さけのこ)」をあげている。ここに記された物品には一部わかりにくいものもあるので、他の史料とあわせながらその内容について確認しておく。まず紙については、「宝亀五年(七七四)図書寮解(ずしょりょうげ)」(「正倉院文書」続々修四十帙三、『大日本古文書』編年文書六巻五八〇頁~五八一頁)で、図書寮が上級官司である中務省に「宝亀五年に諸国がいまだ図書寮にたいして納めていない紙や筆や紙麻(紙の原料である麻)などの品目や量」について報告しているが、そのなかに「信濃国紙壱仟(せん)参佰捌拾(びゃくはちじゅう)帖」とある。信濃国に紙一三八〇張が課せられたことが知られる。紙の貢納に関しては、「延喜民部式」に規定される「年料別貢雑物(ねんりょうべっこうぞうもつ)」(各国が雑徭による労働力によって紙や筆を生産し中央〔大蔵省〕に貢進する制度)にもみえる。宝亀五年に課せられた「紙」は中男作物と年料別貢雑物のどちらの税目により京進されたものなのかは不明だが、ともに国衙の工房で正丁または中男の労働力(雑徭)によって生産され、大蔵省に送られたものである点で共通している。
紅花は染料または薬に用いられた。麻子は食用や薬用に用いられる。芥子は前に述べたとおりである。猪膏は猪のあぶら身、脯は獣(ここでは猪)の乾肉、雉腊は雉の乾肉である。なお、雉腊は長岡京出土の更級郡が貢進した公田地子(こうでんじし)の荷札木簡に見られる(後述)。そして鮭楚割・氷頭・背膓・鮭子は、すべて鮭を材料に加工したものである。楚割は魚肉を干して細かく裂いたもの、氷頭は頭部の軟骨、背膓は背骨内部の軟髄で塩辛としたもの、鮭子は筋子(すじこ)のことである。鮭に関しては、平城京から出土した天平年間ころの木簡のなかに、埴科郡からの鮭四六隻(そう)が「御贄(みにえ)」として貢進されたことが記されている。「中男作物」ではなく「御贄」である点が異なるが、この贄についてつぎに述べる。