地方諸国から中央に納められる物品には贄(にえ)もあった。贄はほんらい神に捧げる食物のことであるが、古代ではとくに天皇にたいする食物の貢納をさす。その起源は古く律令制以前からおこなわれていた首長への食物貢献儀礼の伝統を受けつぐものと考えられている。『延喜式』には規定が見えるものの、律令には明文化されていない。しかし、藤原京や平城京で多量の贄の貢進物付札(つけふだ)木簡が出土し、しだいに実態が判明してきた。
木簡の実例によれば、貢進される贄はすべて魚介類・海藻や肉など食物であり、庸や調が農民個々人が貢納する主体となっていたのにたいして、こうした服属儀礼的な要素のある贄は、郡・里(郷)などが貢納する主体となり、雑徭を用いたり交易によって調達したものと考えられている。信濃国に関する贄の史料としては、藤原宮出土の荷札木簡に「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるのが初例で、これは鹿肉の贄である。また、平城京左京三条二坊北側の二条大路上にある溝(みぞ)状の遺構から、前記したように「信濃国埴科郡鮭御贄四十六隻」と記された木簡が出土している。この木簡をふくむ「二条大路木簡」が廃棄されたのは、天平四年(七三二)から同十一年にかけてであり、とくに天平七年のものが多い。二条大路の南側の長屋王邸跡におかれた皇后宮職(こうごうぐうしき)(このときは光明(こうみょう)皇后にかかわる庶務・家政を担当する機関)と、北側にあった藤原麻呂(まろ)邸から廃棄された木簡をふくむということから、埴科郡のこの木簡は皇后宮職が廃棄した可能性が考えられる。前述したように、信濃国では鮭の加工品が『延喜式』の時期になると中男作物としてあげられているが、天平年間には千曲川を遡上(そじょう)した鮭が贄として埴科郡から天皇家の食卓にもたらされていたのであろう。