仕丁と養物

342 ~ 343

このほかに、広義の労役負担として兵士と仕丁(しちょう)とがあった。兵士・衛士(えじ)・防人(さきもり)については先に「地方の軍制」・「衛士と防人」の項で述べたので、ここでは仕丁についてのみ述べる。仕丁(しちょう)(つかえのよぼろ)は、五〇戸(一里)ごとに男子二人が上京して、中央の諸官庁で種々の雑役に服する負担である。二人のうち一人は立丁とよばれてじっさいに労役に従事し、もう一人はその食事の世話にあたる厮丁(しちょう)(かしわで)と規定されていたが、じっさいには両者とも同じような労役に服しており、その区別は消滅していった。律令の規定では仕丁の任期を三年とし、本人が希望すれば延長することも可能であると定められていたが、じっさいには本人の意志に反して、長期間帰郷することが許されず、逃亡するものも多かった。信濃国から上京した仕丁の実例としては、上番した兵衛(ひょうえ)の食事の世話をした火頭(かとう)が木簡によって知られるが、それについては「衛士と防人」の項で述べた。また、こうして地方から京に出仕した人びと(仕丁・衛士・兵衛・采女など)にたいして京での生活費の一部を送ることも地元の負担であった。これは、先に述べた大化前代の部民制のもとで資養物(しようもつ)を送る制度に由来し、仕丁や衛士にたいしては米や塩、さらに銭が送られることもあり、これを国養物(こくようもつ)といった。