出挙と義倉

343 ~ 345

最後に、厳密には租税とはいえないものの、農民にとっては大きな負担となり、雑税とも称された出挙(すいこ)と義倉(ぎそう)について述べる。

 出挙(大税(だいぜい)出挙)とは律令制下に広くおこなわれた利息付きの貸借で、米や銭などが対象となり、民間でおこなわれたものを私出挙(しすいこ)、官がおこなうものを公出挙(くすいこ)という。このうち、雑税として機能したのは公出挙である。

 公出挙は、律令制下、春秋に国・郡が農民にたいして強制的に稲を貸しつけ、秋の収穫時に五割(のち三割)の利息(利稲(りとう))と元本(本稲(ほんとう))を回収するというもので、はじめは種籾(たねもみ)にも不自由する貧しい農民を救済するという意味をもっていたともいうが、高利で強制的に貸しつけられるうえに、八世紀末以降の調庸制の動揺とともに、しだいに地方財政にとって、重要な財源となり租税化していった。屋代遺跡群出土木簡(もっかん)には、「□五十五束 小□(四九号木簡)、「五月廿日 稲取人 [金刺(かなさし)マ(べ)若侶廿□(束)/金刺マ兄□]」(八七号木簡)、「戊戌(六九八)年八月廿日 酒人(さかひと)マ(べ)□荒馬□(廿)束酒人マ□□□(大万廿)束」(一三号木簡)などと、人名十数量(単位は束)とする記載様式の木簡がふくまれている。これらは各地で相ついで発見されている木簡や漆紙文書(うるしがみもんじょ)の同様な記載から、公私の出挙関係の木簡(出挙木簡)であると考えられている。八七号木簡に見える「五月」は夏の種籾貸付期にあたり、一三号木簡に見える「八月」は収穫直前の米の端境期(はざかいき)に相当し、貸し付けがおこなわれたと考えられている。さらに八七号木簡に見える「稲取人」は出挙稲を受けとった人をさすのではないかとされており、善光寺平では一三号木簡から知られるように七世紀末から出挙がおこなわれていた可能性が指摘されている。


写真11 屋代遺跡群出土87号木簡
長野県埋蔵文化財センター提供

 また、『日本霊異記(りょういき)』下二二には、宝亀五年(七七四)春に亡くなった信濃国小県郡跡目里の他田舎人蝦夷(おさだのとねりえみし)が「銭稲(せんとう)出挙」をおこなうさいに、貸しつけるときは軽い斤(はかり)を用い、債務を徴収する場合は重い斤を用いるとの説話が記されている。これは説話的要素もふくまれるが、民間でおこなわれていた私出挙の実例を示している。なお私出挙の利率は一〇割を上限とすると律令に定められていた。

 義倉は災害にそなえる備荒貯蓄の制度で、律令制度下では親王を除く貴族・官人・農民・品部雑戸(しなべざっこ)にいたるまで戸の資産に応じて九ランクに分類し、ランクごとに納入すべき粟(あわ)の額を定めたものである。粟のかわりに稲・大麦・小麦・大豆・小豆などを納めることもあった。正倉院に伝存する八世紀前半の安房(あわ)(千葉県)・越前(福井県)両国の義倉帳によれば、約八~九割が義倉の負担を免除される等外戸(九つのランクに入らない極貧の戸)であったことが知られている。