公田地子

345 ~ 346

公田(こうでん)とは口分田(くぶんでん)を班給(はんきゅう)し終わって余った田のことで、乗田(じょうでん)(乗は剰の意)ともいう。こうした公田や国司や郡司にたいして支給される職分田(しきぶんでん)のうち田主(でんしゅ)がいない田(無主田)などは、一年契約で一般の農民(公民)に貸しだされ耕作がおこなわれ、これを「賃租(ちんそ)」といった。一般に賃租とは一年を限っておこなう土地の賃借関係のことをいい、土地を借りたものは土地の貸主にたいして賃借料(地子(じし))を支払うことになっていた。耕作前の春に支払う場合を「賃」といい、収穫後の秋に支払う場合は「租」という。また古代では賃租において耕作地を貸しだすことを「売」、借りることを「買」といい、地子を「直」または「価直(かちょく)」といった。

 奈良時代の賃租の地子率は、『令集解』田令公田条が引用する「古記」(天平十年ころできた大宝令の注釈書)によれば、収穫稲の五分の一とするのが慣習であり、弘仁・延喜の両主税式も同様であった。当時、土地一町(一〇段=約一・二ヘクタール)の水田につき、上田で稲五〇〇束(中田で稲四〇〇束、下田で稲三〇〇束)の収穫が見こまれており、一段当たりだと上田では稲五〇束の収穫となる。また、稲二〇束が米一石(こく)(今の四斗)に相当するとされていたので、一段当たり稲五〇束は米に換算すると米二石五斗に当たり、地子は五分の一なので一段当たりでは米五斗であった。公田を借用した場合には、収穫量の五分の四は耕作した農民のものとなったが、五分の一を地子(賃貸料)として国衙に納めなければならなかったわけである。このような公田地子は、各国の国衙から米のままか、あるいは交易によって布などの軽貨に交換して太政官厨家(くりや)に送られ、太政官の経費にあてられた。

 長岡京から出土した木簡には「信濃国更級郡地子交易雉腊(きじのきたい)拾斤太」と見える。年紀はないが、同じ溝から出土した地子物の荷札木簡はすべて延暦九年(七九〇)のものであることから、同時期のものと推定されている。更級郡内の公田または無主の職分田などを郡内の農民に貸与し、そこから得られた収穫稲の二〇パーセントが信濃国衙に納められ、これをもとに雉の乾肉一〇斤(約六キログラム)と交換し、それを長岡京内の太政官厨家に納めたさいに付けられた荷札木簡である。なお延喜十四年(九一四)八月十五日付の太政官符によれば(『政事要略(せいじようりゃく)』・『別聚符宣抄(べっしゅふせんしょう)』)、信濃国にたいして「例進地子雑物」として「商布」一一〇二段六尺、「細貫筵(ほそむきむしろ)」二〇〇張が課せられている。