ところで、直接、農民が負担した例ではないが、天平年間ごろから中央で必要な品を国衙の正税をもとに交易して購入し、それを中央政府に進上した例が、残存している諸国の正税帳に見える。そうした実例として、正倉院宝物中の布袋の口縁部には「□(信)濃国伊那郡小村□(郷)交易布一段 天平十八年十月」との墨書銘がある。これは、天平十八年(七四六)十月、信濃国衙が伊那郡小村郷(伊那市付近)から正税と交換で麻布一段を購入し中央政府に納めたものである。従来、年紀が天平十年とされてきたが、近年の調査によって釈文(しゃくもん)(解読文)があらためられ、天平十八年のものであることが判明した(『正倉院宝物』2 北倉Ⅱ)。
なお、こうした制度は八世紀末から九世紀はじめにかけて交易雑物として成立し、動揺する調庸制を補完した。「延喜民部式」には信濃国に課された交易雑物(きょうやくぞうもつ)(こうえきざつもつ)として、商布六五四〇端、熟麻(にお)一〇斤、覆牛皮(おおいうしがわ)三張、鹿皮九〇張、洗皮(あらいかわ)一五枚、紫草二八〇〇斤、布一五〇〇端、細貫筵五〇枚、円長猪脂(まるながのいのあぶら)一斗、櫑子(らいし)四合が規定されている。