信濃国内におかれた封戸

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封戸(ふこ)とは古代の給与制度のひとつである食封(じきふ)(一定地域の戸口を指定し、租や調庸や、仕丁を支給する制度)を支給するため封主(ふうしゅ)に割りあてられた戸をいう。租・調・庸の収取や仕丁の徴発ともかかわるので、以下、説明を加える。

 先に述べたように『日本書紀』によれば、大化二年(六四六)正月に発せられたとされる「改新の詔(みことのり)」の第一条には、それまで豪族が所有していた私地私民を廃止したかわりに、「大夫(たいふ)」(国政の審議に参加した有力氏族の代表者)以上に食封を支給する方針が示された。当時、こうした法令が発布されたか否か、たとえ発布されたとしてもただちに実施されたかについては議論のあるところであるが、最終的には壬申(じんしん)の乱後の天武朝に、全国的に人びとを戸籍などによって掌握する編戸(へんこ)(戸主を決めたり戸の範囲を確定すること)という作業が終了してから順次整備されていったと考えられており、大宝禄令(ろくりょう)によって制度的に完成したといわれる。

 その規定によると、封戸には、親王の品位(ほんい)(一品(ぽん)から四品)によって支給される品封(ほんぷ)、三位以上の官人(正一位~従三位)に支給される位封(いふ)、大納言以上(太政大臣・左右大臣・大納言)の官職にあるものに支給される職封(しきふ)、特別に天皇の命令で支給する功封(ほうふ)、寺社への封戸(寺封(じふ)・神封(しんぷ)〔神戸(かんべ)〕)などがある。たとえば一品の品封は八〇〇戸、正一位の位封は三〇〇戸、太政大臣の職封は三〇〇〇戸であった。封戸が支給されると、その戸から徴収される田租の半分(天平十一年からは全部)と調・庸の全部、仕丁の力役などが封主にあたえられる。これらの田租・調庸・仕丁などは、対象となった封戸からまず国司・郡司が収取して支給者に渡すことになっていた。

 信濃国内に設定されたことが明確に分かる封戸は、寺社にあたえられたものである。『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』によれば、信濃国におかれた神社の封戸(神封)は、大同元年(八〇六)ころの記録によると、信濃国内の神社では、「建御名方富命神(たけみなかたとみのみことのかみ)」(諏方郡)が七戸、「生嶋足嶋(いくしまたるしま)神」(小県郡)・「墨坂(すみさか)神」(高井郡)・「越知(おち)神」(高井郡)の封戸がそれぞれ各一戸指定されている。信濃国外の神社では、「石上(いそのかみ)神」(大和国)の封戸全八〇戸のうち五〇戸、「葛木犬養(かつらぎいぬかい)神」(大和国)が二〇戸、信濃国内に指定された。とくに「墨坂神」・「越知神」の封戸は天応(てんおう)元年(七八一)十月十日におかれたことが知られている。

 いっぽう、同書によると、寺封は、「□師寺」の四〇戸のうち二〇戸が、大安寺(だいあんじ)の一〇五〇戸のうち五〇戸が、飛鳥寺(あすかでら)の一八〇〇戸のうち三三〇(三〇〇ヵ)戸が、薬師寺の五〇〇戸のうち五〇戸が、荒陵寺(あらばかでら)(四天王寺(してんのうじ))の三五〇戸のうち五〇戸が、山階(やましな)寺(興福寺)一二〇〇戸のうち五〇戸が、東大寺の五〇〇〇戸のうち二五〇戸が、それぞれ信濃国内の公戸より支給されていたことが知られる。このうち「□師寺」は神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)に設定されたことが知られる。また、大安寺は一〇五〇戸のうち癸酉(みずのととり)年(天武二年、六七三)に三〇〇戸が、丙成(ひのえいぬ)年(朱鳥元年、六八五)に七〇〇戸が、天平宝字五年(七六一)正月に五〇戸が、それぞれ設定されていることから、天武・持統朝において科野国内に大安寺(前身の大官大寺)の寺封が設定されていた可能性が高い。さらに飛鳥寺は一八〇〇戸のうち、「癸酉年」に一七〇〇戸が、宝亀十一年(七八〇)五月に五〇戸が設定されていることから、天武二年には少なく見積もっても二五〇戸が科野国内におかれた。また、東大寺の寺封の場合、天平勝宝二年(七五〇)ころには、信濃国に二五〇戸ほどおかれていたことが知られるほか、『東大寺要録』八によると、天平十九年(七四七)九月二十六日、聖武天皇の勅旨によって信濃国小県郡で食封五〇戸が「金光明寺(こんこうみょうじ)」(東大寺)に施入されたことが分かる。信濃国内で封戸が指定された郡名が分かる唯一の例である。

 なお、天平宝字六年(七六二)八月付「経所食物下帳」の八月二十三日条・九月一日条(「正倉院文書」続々修三十八帙八所収、『大日本古文書』編年文書十五巻四七五頁・四七八頁)には旅行用の食料である「糒(ほしいい)(かれいい)」を「信濃使」が造東大寺司主典(さかん)で造石山寺所の別当(べっとう)(責任者)である安都雄足(あとのおたり)より支給されているが、この「信濃使」は同年十二月十四日付と推定される「安都雄足用銭注文」(「正倉院文書」続々修十八帙三裏、『大日本古文書』編年文書十六巻五七頁~五八頁)に銭一〇貫を雄足のもとに進上した「信濃人」と同じであると考えられている。こうした「信濃人」「信濃使」と雄足との関係については、ほかに史料がないことから、不明な点も多い。あえて憶測すれば、雄足は越前国での東大寺領の寺田経営のかたわら、みすがらも直営田や借用した賃租田など私田の経営をおこなっていたことを参考にすれば、越前国と同様に信濃国に派遣され、東大寺の封戸の管理(徴租・出挙・交易・収納など)に直接従事しつつ、私出挙や直営田・賃租田の経営にかかわったか、あるいは荘園予定地を調査し、決定するため信濃に派遣され、そのさいに私的な経営拠点をつくり、その後も銭を送らせるような密接なつながりを維持したか、のいずれかの可能性が考えられる。ただし、雄足は藤原仲麻呂派の官人であるという説にしたがえば、雄足が仲麻呂家の家産活動(経済活動)の一端をになったことにより親仲麻呂派官人が国司となっていた信濃に進出したのではないかと推定することも可能である。


写真12 正倉院文書天平宝字6年
「経所食物下帳」 (正倉院宝物)


写真13 正倉院文書天平宝字6年
「安都雄足用銭注文」 (正倉院宝物)

 位封や職封については史料が見えない。しかし長屋王家木簡に信濃に関する木簡が見えることから、これは長屋王の封戸があったためではないかと想定する考えもある。その場合、先に述べたように、武烈紀に見える「城上邑」(水派宮)が高市(たけち)皇子の「城上(殯)宮」や長屋王家の「木上司」に継承されたらしいこと、壬申の乱のさいに動員された「科野の兵」らを率いて活躍した高市皇子の存在、善光寺平に設定されていたらしい「壬生部(みぶべ)」などの存在をあわせて考えると、科野国造領域に設定され皇太子などに継承されてきた壬生部などが大化改新後に皇親の封戸に指定され、壬申の乱後、高市皇子の封戸になり、さらにそれが長屋王に継承されたという可能性も十分想定できる。

 ところで、平城京左京三条二坊八坪と二条二坊五坪とのあいだの二条大路からの南北両端に掘られた三条の東西溝状土坑(どこう)から出土した、いわゆる「二条大路木簡」には、文書を巻いてあった軸木があり、その軸口には両方とも「伊勢国天平八年封戸調庸帳」と書かれている。これは、伊勢国に設定された封戸から徴収された調庸物の品目・数量およびそれを負担した丁数などを書き上げた帳薄である。この軸木で注目されることは、その軸部に「土師器埴埴科科科科文甚大大大大大」と習書風に書かれている点である。ここに見える「埴科」は信濃国埴科郡をさすと考えられているが、巻いてあった天平八年の「伊勢国封戸調庸帳」とは内容的に結びつかず、何を意味するか不明である。ただし「土師器」(はじき)、「埴科」(はにしな)、「甚大」(はなは・だし)が「は」音で共通するところから、辞書のようなものを習書した可能性も想定できる。