更級郡は、千曲川左岸に位置し、犀川以南に位置する。郡の北半分は犀川と千曲川によって形づくられた複合扇状地である。犀川の流路は現在は犀口(さいぐち)からほぼ東ヘ一直線に流れるが、かつては犀口を扇頂として、北は旧長野市街地南端の段丘崖下から南は現在の篠ノ井市街地にいたるあいだをいくつかの流れになって分流していた。弥生時代以来の開発がすすんでいたのは郡の南半分の石川(篠ノ井)・塩崎(同)・稲荷山(更埴市)の各地区で、千曲川の後背湿地から自然堤防を形成し、ここには近年の圃場(ほじょう)整備がおこなわれるまで条里的遺構が残され、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳(篠ノ井石川)に代表される前期古墳が所在した。この西側は山地になっているが、ここには信濃最古の須恵器窯(すえきがま)(信更町赤田の松の山古窯(こよう)跡)があるほか、一本松峠を越えたところには麻績(おみ)郷(東筑摩郡麻績村付近)が位置する。更級郡は、南で小県郡・筑摩郡と、西で安曇郡と、北で水内郡、東で埴科郡・高井郡と接しており、伊那・諏訪両郡と接しないのみである。また当郡には麻績・村上・當信(たしな)・小谷(おうな)・更級・清水・斗女(とめ)・池・氷鉋(ひかな)の九ヵ郷(『和名抄』)があり、式内社(祭神)が一一座ある。これは信濃国の一〇郡のうちでもっともその数の多い郡であり、古代の人口集中地帯であったことを示している。
このように、郡の位置や郷数・祭神数、人口や生産力などの条件を考えあわせると、更級郡は信濃の中心的位置を占める郡であったということができる。このことは遺跡の面からもいうことができる。松之山古窯跡は、六世紀初頭の、今のところ信濃最古の須恵器窯で、この古窯跡の位置する一帯には聖山(ひじりやま)古窯跡群が立地する。古墳群の面でも、篠ノ井石川の姫塚古墳(前方後方墳)や川柳(せんりゅう)将軍塚古墳(前方後円墳)などの信濃でも最古の部類に属する古墳があり、そのふもとには条里水田の遺構と古墳時代の大規模な祭祀(さいし)遺跡でもある石川条里遺跡がある。廃寺跡に関しては、石川条里遺跡の立地する後背湿地に接してその北側の山麓(さんろく)に上石川廃寺跡がある(第三節参照)。郡家所在地に関しては、更埴市八幡(やわた)に「郡(こおり)」という地名が存在し、付近の北稲付遺跡からは木簡(もっかん)が、社宮司(しゃぐうじ)遺跡からは奈良三彩(さんさい)が出土しており、青木遺跡は奈良時代の寺院跡と推定されている。こうしたことから、「郡」付近に更級郡家の存在を想定する説が出されている。郡家所在地の候補地については、川中島扇状地のうちに比定する説や、上石川廃寺付近に想定する説もあり、遺構に関しては今後の発掘成果にまつ必要がある。
更級郡の内部は、郡家比定地の現更埴市八幡を中心に稲荷山から石川までの地域で、このうちに郡名を冠した「更級郷」があったものと思われ、当郡のなかでもっとも開発のすすんでいた地域であると考えられる。この地域の北に接して川中島扇状地があるが、古代では開発の対象となりにくく、むしろ脈流する犀川の微高地ないし千曲川の自然堤防上に斗女・池・氷鉋の各郷が所在したと思われる。発掘調査の成果によれば、扇端部ないし千曲川の自然堤防上の花立遺跡・田中遺跡は弥生時代後期に、また田中沖遺跡は古墳時代以降に開発されたが、扇央部への開発は遅れ、平安期にはいって南宮遺跡(篠ノ井東福寺)のような有力な集落が形成され、そのなかから御厨(みくりや)・荘園(しょうえん)が開発されたものと思われる。
これにたいし、麻績郷は筑摩山地のなかに位置し、郡家所在地より標高で三〇〇メートル近く高いところに位置する。鎌倉時代以降更級郡から離れ、筑摩郡に属するようになるのはそうした自然条件にもよると考えられるが、古代に更級郡に属した背景についてはかならずしも明らかではない。この地には、積石塚(つみいしづか)古墳の安坂(あざか)将軍塚(東筑摩郡坂井村)があり、渡来(とらい)系の人びととのつながりが指摘されている。
いっぽう、郡の南端に位置する村上郷は、千曲川に山地が突きだした「崎」「鼻」地形により独立した空間を構成する。この村上郷には力石(ちからいし)条里遺構(上山田町)があり、波閇科(はべしな)神社(式内社)も所在する。『和名抄』の更級郡の郷の配列は、麻績・村上・當信・小谷・更級・清水・斗女・池・氷鉋の順で、麻績郷と村上郷が連続して配列されている。『和名抄』の郷の配列には一定の規則性があると考えられており、これは麻績郷と村上郷を結ぶ古道(四十八曲峠経由)が郡内交通の主要なルートであった時期があったことを示しているか、あるいはもともとは一体的な郷であったことを示すのではないかと考えられる。