水内郡

355 ~ 356

水内郡は、千曲川左岸に位置し、犀川以北に位置する。郡の中心は、千曲川・犀川・浅川・裾花(すそばな)川によって形成された複合扇状地である浅川扇状地・裾花川扇状地(現在の長野市街地)にあり、芋井(いもい)(旧長野市街地北西部一帯)・大田(豊野町を中心とする一帯)・芹田(せんだ)(長野市千田を中心とする一帯)・尾張(おわりべ)(長野市北尾張部・西尾張部を中心とする一帯)・大島・古野(長野市布野を中心とする一帯)・赤生(あかふ)・中島の八力郷と、九座の式内社がある。郷の数では佐久郡と同じで更級郡につぎ、式内社の数でも更級郡についでいる。水内郡は更級郡とならぶ人口集中地域、先進地域であったといえよう。

 遺跡の面では、地附山(じづきやま)古墳群、吉(よし)古墳群、三才(さんさい)古墳群、浅川若槻(わかつき)古墳群などの群集墳が、現市街地の西部の山麓(さんろく)に立地している。とくに積石塚や合掌形石室が高井郡の大室(おおむろ)古墳群(松代町大室)とならんで多く分布する。この複合扇状地の扇央から扇端にかけて広範囲に条里的遺構が広がっている。この条里遺構の分布する旧長野市街地から犀川・千曲川の自然堤防にかけての地域に古代の郷が展開していたものと考えられる。ただし、水内郡の郷のうち大島・中島・赤生の三郷については比定地がかならずしも明確でない。大島の遺称地としては現小布施町大島(おおじま)が、中島については須坂市中島があげられ、それぞれ千曲川西岸からの移転伝承をもつ。千曲川が高井郡と水内郡の郡境で、古代の両郷が他の郷同様に千曲川左岸にあったとすれば、千曲川の流路の変更によって郷自体が埋没してしまった可能性があると思われる。赤生郷については遺称地もなく現在のところまったくその手がかりがない。

 水内郡における表面条里遺構の分布の北限は今のところ現在の豊野町で、同町石(いし)・蟹沢(かにさわ)地区に条里遺構が存在する。現在の長野市北部から豊野町・牟礼(むれ)村にかけての一帯には、奈良時代末期から平安時代前期に活動した髷山古窯跡(もとどりやまこようせき)群があり、その直下を越後へ抜ける東山道支道が通過している。郡内の廃寺跡についてみると、若槻廃寺跡出土瓦や現善光寺境内出土瓦などからその存在が推定されている。

 水内郡家については、かつて現在の長野市県町(あがたまち)の県町遺跡付近がその候補地として考えられていた。現段階で水内郡家の位置を確定することはできない。近年、善光寺周辺の地や長野市権堂がその跡を伝える遺称地に古代に善光寺前身寺院が存在し、それが郡寺、郡家付属の寺院としての性格をもつものであるとする見解が出されている。こうした点から、おそらくは郡家は善光寺の周辺に存在した可能性が高いと考えられている。