埴科郡

357 ~ 358

埴科郡は千曲川右岸に位置し、その南端で小県郡と接する。この境界には鼠岩鼻(ねずみいわはな)とよばれる山地が突出した崎・鼻地形があり、郡内には同様の地形がみられる。それによって郡内は複数の小地域に区分される。『和名抄』の英多(あがた)郷(松代町付近)と坂城(さかき)郷(坂城町付近)の両郷と、その両者にはさまれた屋代・大穴(おおな)・船山(ふなやま)・磯部(いそべ)・倉科(くらしな)の地域はそれぞれ独立した小地域を形成している。英多郷には舞鶴山古墳群(円墳一基、前方後円墳二基)や積石塚古墳が存在し、条里的遺構や平安期の廃寺(道島廃寺)が存在する。坂城郷の地域にも、込山(こみやま)廃寺跡があり、その跡から出土した瓦と同笵(どうはん)の瓦が国分寺・国分尼(に)寺跡(上田市)からも出土し、また郷内の土井ノ入窯跡からも出土している。坂城郷内の窯で焼かれた瓦が郷内の豪族の寺院に用いられるとともに、国分寺の瓦として用いられたことを示している。

 埴科郡の郡家については、これまで戸倉町小船山付近に比定する説、更埴市屋代付近に比定する説などがあったが、屋代遺跡群出土木簡から屋代付近に比定する説が有力となっている。この屋代付近には、信濃最大の前方後円墳である森将軍塚古墳があり、その眼下には更埴条里遺跡が広がっている。また雨宮(あめのみや)廃寺跡も付近にあり、これらのことから屋代郷を中心とする一帯が埴科郡の中心地であると考えられている。

 以上、長野市域にかかわる四郡の古代の歴史的環境について述べてきたが、更埴市屋代遺跡群出土木簡からこれら北信四郡の一体的性格が明らかになってきた。そこでつぎに、新たな古代社会の歴史像を提供することとなった屋代遺跡群出土木簡についてみることにしよう。